山名一族に対する一般の評価は低い。軍記物の中では“弱敵”呼ばわりしているものさえある。現代の歴史小説にも取り上げられることはない。早々と滅んでしまい、後世への代弁者を持たなかったせいだと思う。 続きを読む
【雑感】伯耆山名家の崩壊
伯耆の山名氏は、隣国の戦国大名・尼子経久が率いる出雲の軍勢に飲み込まれてしまった。上野の国からやって来た山名時氏が、伯耆に本拠を構えて四方を切り従え、一時は、西日本に覇を唱えた一族である。
【戦国】大永の五月崩れ
伯耆国の守護山名家の滅亡は、大永4年(1524年)5月――。隣国出雲の戦国大名・尼子経久が伯耆に侵攻して山名方の諸城を落とし、守護大名の山名氏久を伯耆の国から追い払ったとき、と言われてきた。いわゆる「大永の五月崩れ」と呼ばれる事件だ。後に細川家の家臣となる小林家の先祖附に、一族の多くが戦死した「山名家没落の節」という記述は、伯耆山名家の滅亡のことを指すと思われる。 続きを読む
【史料】「吾妻鏡」元暦元年(1184年)五月一日
義仲の残党掃討軍に小林の名が見える。 続きを読む
【事典】「吾妻鏡」
「吾妻鏡」は鎌倉幕府の歴史をつづったもので、源頼朝挙兵の治承4年(1180年)に始まり、第6代将軍宗尊親王が帰京する文永3年(1266年)までの記事を掲載。小林党に関すると思われる記事も見られる。
【室町】上杉氏の平井城進出
関東管領を務めた上杉氏が、高山・小林一族の本拠地、上野国緑野郡の高山御厨(群馬県藤岡市)に平井城を築いたのは、永享10年(1438年)のことだとされる。鎌倉公方・足利持氏と対立した上杉憲実は、それまで居館があった鎌倉の山内館にいることができなくなり、守護国であった上野に退去した。高山御厨の地は、以後、関東の戦国騒乱の中心地となってしまう。 続きを読む
【雑感】勘右衛門を幸隆に託したのはなぜ?
小林丹波が、子の勘右衛門を愛宕山福寿院にいた細川幸隆に託したのは、戦国の世も終わりに近い、天正年間のことだ。幸隆は細川幽斎の三男。後に妙庵とも号した。やがて還俗することになるが、このときは出家の身である。では、丹波は、純粋に勘右衛門を仏門に入れたかったのか、それとも、細川家で家を立てることに賭けたのだろうか?
【史料】「小林文書」小林重政言上状
建武元年 小林重政言上状(新田義貞外題国宣) (「群馬県史研究」第29号、「小林家文書」より)
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