細川幸隆(妙庵)は元亀2年(1571年)、細川藤孝(幽斎)の第四子として誕生。長男は忠興、二男は興元で、3人の母は、若狭熊川城主沼田上野介光兼の娘・麝香(じゃこう)である。
天正10年(1582年)3月、京都の愛宕山下坊「福寿院」で僧籍に入った。その後、還俗して武将となり、細川家に戻る。その時期を、「綿孝輯録」(「細川家記」)では天正11年(1583年)。幸隆の菩提寺に残る「妙庵寺由緒」では天正19年(1591年)としている。
幸隆30歳の慶長5年(1600年)に、父・幽斎とともに田辺城で籠城戦を戦う。小林勘右衛門も籠城に加わり、幸隆・幽斎の近くにいたようだ。
細川忠興が豊前国を領したのに伴い、慶長8年(1603年)、幸隆は龍王城(大分県宇佐市安心院町)の城主となり、4年後の慶長12年11月1日に37歳で亡くなっている。
武将よりも、文化人の血を受け継いだようで、能に関する数多くの書を残しており、わが国の能楽史研究の上では重要な人物であったと伝えられている。
私は小林勘右衛門の末裔で小林幹児と言います。過日、大分出身の安心院廣明という人物と仕事をしました。幸隆の小姓として龍王城へ小林勘右衛門も行ったのでしょう。それを迎えたのが安心院氏だとすれば、末裔同士の再会と言えるでしょう。戦国時代の話に花が咲きました。