【戦国】国人領主、日野山名氏

 伯耆国日野郡の国人に、日野山名氏と呼ばれた山名氏の一族がいた。山名義幸の子孫と伝えられ、生山城(亀井山城)を本拠に室町時代から戦国時代までを生き抜いた。

 山名義幸の父は師義。足利尊氏に従って上野から上京した山名時氏の嫡男である。義幸は師義の長男に当たるが、病弱だったため、一族の惣領は師義の弟の時義へ移っている。

 義幸が在地領主化した日野郡は、伯耆の西南部に位置する中国山地のあたりで、出雲、備後、備中、美作国と連絡する交通の要衝だった。

 伯耆の守護は義幸の弟である氏之の系譜が継いでいたが、守護家の内紛に乗じて、出雲の尼子経久が侵攻の手を伸ばしてきていた。日野郡は戦略上の要地でもあるため、尼子勢の進出は早く、永正7年(1510年)には尼子氏重臣の亀井秀綱が日野郡印賀(日野郡日南町印賀)に派遣された記録が残っている。

 日野山名氏については、鳥取県立公文書館編の鳥取県ブックレット4「尼子氏と戦国時代の鳥取」を参考にした。それによると、尼子氏の侵略に対して、日野山名氏は、尼子傘下に降るのでなく、村上氏や行松氏らとともに国外退去したという。

 熊本・細川家がまとめた藩士の「先祖附」には、小林恒太郎らの先祖を、「伯州山名家の分流にて、丹波国に在城仕り居り申し候。其後、山名家没落の節、一族、何れも戦死仕り候由。(略)」と記している。

 「山名家没落の節」が指し示す歴史的事実は、まだ不明だ。伯耆守護・山名家の滅亡を指すのか、日野山名家のような分家の事件なのか、わからない。守護家にしても、内紛で敗れた側かもしれないし、内紛には勝ったが、尼子氏に滅ぼされた側かもしれない。

 該当しそうな出来事が多すぎる、ということは言えそうだ。

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