「江戸」カテゴリーアーカイブ
【江戸】高山彦九郎 終焉の地
上野国の高山御厨から出た高山一族の一人、高山彦九郎(1747~1793)が自刃して果てた福岡県久留米市には、墓所と終焉の地に記念碑が建てられ、遺徳が今でもしのばれている。 彦九郎は「寛政の三奇人」の一人にも数えられる … 続きを読む
【江戸】高山彦九郎が肥後で会った人たち
江戸時代後期の尊王家・高山彦九郎は、小林党と同じく群馬・藤岡にあった高山御厨の高山氏が出自と伝えられている。全国の著名人士と交流して尊王思想を広め、幕末の志士の先駆をなした人物として知られるが、九州遊説中に幕吏の追われ … 続きを読む
【江戸】寛永五年・小林伝三郎江戸への御供を望む
「熊本県史料近世編」第二には、「寛永五年十一月五日覚」という、小林伝三郎が江戸参府に連れて行ってほしいと希望を出していた記録が残っている。
【事典】細川幸隆
細川幸隆(妙庵)は元亀2年(1571年)、細川藤孝(幽斎)の第四子として誕生。長男は忠興、二男は興元で、3人の母は、若狭熊川城主沼田上野介光兼の娘・麝香(じゃこう)である。
【雑感】江戸時代の心性
明治9年、熊本で起きた神風連の乱に参加した小林恒太郎は、事敗れた後、自宅に戻って切腹。最期のときに、先立つ不孝をわびる恒太郎に、母・ツタ子は安心して死ぬように励ましたと伝えられている。軍国主義の美談に利用されそうな場 … 続きを読む
【事典】先祖附
「先祖附」は、肥後細川藩が藩士に家系を提出させたもの。熊本県立図書館蔵の先祖附によると、明治維新時の藩士だった小林恒太郎の初代に関して、次の記録が残っている。
【雑感】勘右衛門を幸隆に託したのはなぜ?
小林丹波が、子の勘右衛門を愛宕山福寿院にいた細川幸隆に託したのは、戦国の世も終わりに近い、天正年間のことだ。幸隆は細川幽斎の三男。後に妙庵とも号した。やがて還俗することになるが、このときは出家の身である。では、丹波は、 … 続きを読む
【江戸】細川幸隆、龍王城主となる
細川忠興が関が原の戦いでの功績によって豊前の国を拝領したのに伴い、弟の幸隆も豊前に入国し、宇佐郡安心院にあった龍王城主となった。幸隆に仕えていた小林勘右衛門も従ったはずである。上野国を出自とする小林党が九州の地に縁を持 … 続きを読む
【江戸】勘右衛門、「御前損じ」により知行召し上げ
小林勘右衛門は、細川家が豊前を領していた時代に、当時、隠居していた忠興によって、暇を出されている。知行を召し上げになったわけだが、周囲のとりなしにより、藩主・忠利が寛大な措置を講じ、帰参を許されている。