小林丹波が、子の勘右衛門を愛宕山福寿院にいた細川幸隆に託したのは、戦国の世も終わりに近い、天正年間のことだ。幸隆は細川幽斎の三男。後に妙庵とも号した。やがて還俗することになるが、このときは出家の身である。では、丹波は、純粋に勘右衛門を仏門に入れたかったのか、それとも、細川家で家を立てることに賭けたのだろうか?
このあたりの事情をわずかに記録しているのは、小林家の「先祖附」しかない。
小林丹波は、伯耆の山名家の分流だが、山名家滅亡のとき、一族も滅び、幼かった丹波のみが助かり、丹波国篠山の地に暮らしていたという。
一方の幸隆は12歳で出家し、愛宕山の福寿院下坊にいたところに、小林丹波が勘右衛門を連れてきて児小姓として使ってもらったことが書き残されている。
幸隆は還俗し、関が原の戦いの折りは、幽斎とともに丹後・田辺城に籠城。勘右衛門も幸隆のそばに仕え、使い番のような役目を果たしている。
細川家の家督は、幸隆の兄の忠興が継ぎ、豊前国主となるが、勘右衛門は豊前時代に細川家に召抱えられ、正式に家臣に取り立てられている。
結果として、小林勘右衛門の子孫は細川家臣として明治維新まで家を保つことになる。
ただし、愛宕山に現れた小林丹波に、武家奉公の期待があったか、微妙なところだ。仕える先として僧侶である幸隆を選んでいるからである。還俗は、結果であり、それを見越すことは難しかったであろう。
ここで視点をかえてみる。伯耆・山名家の滅亡は、大永4年(1524年)ごろとみられる。隣国・出雲の戦国大名尼子氏の侵攻によるものだ。
先祖附の記述に従えば、幼かった丹波は、丹波国篠山に逃げた。逃避先の丹波国の戦国大名波多野氏が明智光秀に率いられた織田軍に滅ぼされたのは天正7年(1579年)。篠山には沢田城という小林氏の小城もあったが、このとき、攻め落とされている。
小林丹波は、少なくとも、二度の“族滅”の危機を体験した可能性がありそうだ。武士を捨てたくなったとしてもおかしくないほどの出来事だったろう。
この推理でいくと、幸隆にわが子を託した思いは、文字通り、仏門に入れ、戦国の浮世から、せめて勘右衛門だけは遠ざけたいとの気持ちだったのかもしれない。
結果は、小林丹波の思惑ははずれ、幸隆は武将に戻り、勘右衛門も武士として身を立てることになる。幸か不幸か、どちらだったのだろうか?
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