「先祖は小林民部丞と申す者、伯州山名家の分流にて、丹波国に在城仕り居り申し候。その後、山名家没落の節、一族、いずれも戦死仕り候由…」。肥後細川家に明治維新まで仕えた小林家の「先祖附」の一節である。山名家没落の節とはいつのことを指すのだろうか――。
先祖附は、細川藩が藩士に提出させた各家の系図を集めたもの。「先祖に小林民部丞という者がいる、伯耆の守護大名だった山名家の庶流が丹波に在城していたが、山名家が没落した戦乱の中、小林一族はいずれも戦死した」というような内容が読み取れる。
「山名家没落の節」というのは、伯耆守護山名家が隣国・出雲の戦国大名尼子氏の侵攻を受けて滅んだ時期である1500年代前半ごろ、とこれまで考えてきた。
しかし、もっと時代を遡らせて、明徳の乱(1391年)と読み替えたらどうなるだろうか、と最近、思案している。
室町幕府三代将軍、足利義満に対して、山名氏清ら山名一族が乱を起こし、一日で鎮定された。軍記物語「明徳記」には、小林上野介ら小林一族も山名家の重臣として登場し、討ち死にしたことが出ている。
小林氏は氏清の父・時氏時代には、山名家の家宰のような役割を担ってきたようだ。丹波守護代などにも任じられており、史料には、民部丞、左京亮、上野介という名が出てくる。
先祖附の「丹波在城」のくだりも、明徳の乱以前の丹波守護代のころのことを指している、と解釈できないだろうか。
山名家自体は、乱後も生き延びて再び大勢力となり、応仁の乱では西軍を率いる大大名に発展。
今回の「山名家没落の節」は、明徳の乱を起こした側の山名家である。小林一族そのものは、乱で多くが討ち死にし、その後、大きな活躍をすることはなかった。
ただし、この説では、先祖附の「伯州山名家の分流」という部分に違和感が残る。