2010年は細川幽斎没後四百年にあたる。熊本市では幽斎公四百年祭が開かれ、戦国時代の文武を代表した武将の顕彰が行われる。100年前の明治43年(1910年)にも三百年祭が開かれていた。熊本で当時、発行されていた九州日日新聞は「三百年祭彙報」というコーナーを設けて、連日、報じていた。
同紙によると、三百年祭の会期は明治43年4月16日から15日間。熊本市の出水神社での大祭をはじめ、騎射、犬追物、花火、宝物展覧会などが行われた。
4月5日付の紙面には名誉顧問の記事が載っている。(句読点を追加して記載。以下同様)
「三百年祭名誉顧問として、清浦子爵を推すこととなり、同会より、推薦状を発送したり」
熊本出身で、後に首相も務めた清浦圭吾のことである。
紙面では準備段階から詳細な報道を続けており、同日付けには、祭式事務委員会の決定による神官の服装まで掲載。
「大祭当日は約二十名の祭員奉仕すべく、熊本市及飽託郡の各神職に依頼する筈。神官の服装は斎主及副斎主は正服加勤、神職は斎服を着用することとなり」
16、23、24、28、30日には、打ち上げ花火や仕掛け花火があり、多くの露店が道を埋めたという。
初日のにぎわいは4月17日付けの紙面で次のように書いてあった。
「幽斎公三百年祭第一日、大祭は昨十六日午前十一時、市外、出水神社に於て挙行されたるが、朝来、押し寄する参詣人は、二、三日来、乾き切りたる道に土埃を立て、踵を継ぎ往き交う。軽便は溢るる計かりの客を運び、花曇りの空は一騎春めき渡たり…」
4月24日付けでは、細川家の動向を紹介。
「護立男爵日程 侯爵代理として下県中の細川護立男は昨日午前十時、出水神社大祭に参列。それより熊本市の招待にて江津湖に船をうかべ、中の島にて(2字不明)あり。午後六時ふたたび出水神社に引返し、仕掛花火の観覧あり。本日午前十時出水神社大祭参列。午後、能楽観覧の上、武徳会支部大会に趣き、同五時、偕行社に於ける歓迎会に臨場。明二十五日は出水神社に於て犬追物観覧。二十六日は武徳殿に於ける熊本藩諸流武術観覧の後、出水神社に於て流鏑馬式に臨場の筈なり」
九州日日新聞の記事からわかるように、三百年祭は熊本を挙げてのイベントだったようだ。
この三百年祭には、幽斎ゆかりの家臣らの子孫も招かれたという。青龍寺城時代から幽斎につき従ってきた者や、田辺城に籠城した者の子孫である。小林勘右衛門も田辺城に籠城した者の1人である。