【明治】旧功臣の子孫を召す

細川幽斎公没後三百年祭が行われた明治43年(1910年)10月の「九州日日新聞」には、祭典に関する記事が連日掲載された。熊本市黒髪(当時・黒髪村)の細川家御祠堂で執り行われた祭典は、この年の4月に開かれた市民挙げての「三百年祭」とは趣を異にし、細川侯爵家の「私祭」的要素が強かったようだ。

「九州日日新聞」の10月2日付け紙面には、三百年祭の参列者について説明が出ている。旧家臣の内、参列を許されたのは、細川氏の旧領・京都の青龍寺城時代の臣下と、関ヶ原の戦いにおける丹後・田辺城の籠城衆のそれぞれ子孫たち。幽斎公との縁が格別に深い者たちの末裔であることからだという。2010年11月7日に執り行われた四百年祭でも、前例にならい、青龍寺以来と田辺籠城衆の子孫たちが招かれた。

少し長くなるが、当時の記事は「旧功臣の子孫を召す」との見出しをつけて、以下のように説明している。(句読点を追加)

 「来る六日、幽斎公三百年祭を、細川侯爵家において御執行につき、公の青龍寺在封時代の臣下たりし者の子孫、及び、田辺籠城時代の臣下たりし者の子孫に限り、御祭典に参列を差し許さることとなりたるが、幽斎公の臣下として報効に務めたるものは、独り、この両時代の人々に限らず。然るに、今日の御祭典においては、特にこの両時代の臣下の子孫のみに限られたるは、一は創業の初め、公に従って股肱を致し、一は籠城の際、公と死生を同じふせし者にて、その縁故、ともに格別深厚なるを忍ばれて、斯くは取り計らはれたる者の由にて、両時代における臣下の姓名、及びその子孫の現存せるは左の如くにして、頃日、細川家家扶浅井栄煕氏より、左の書状を以て右の子孫の人々に通知したりと云ふ」

これに続けて、「青龍寺時代人名」「田辺籠城人名」に分けて戦国と明治の両時代の60人の家臣と子孫の名が列挙されている。

子孫に送られた通知状も出ている。

 「来る十月六日、藤孝朝臣三百年御忌祭執行相成り候については、貴下の御祖先何某君の深き御縁故あることを(田辺籠城の功労を)思し召され、右御祭典に参列差し許され候條、同日午前八時、龍田御祠堂へ御出頭、これ有りたく、この段、●貴意候也」

また、10月6日の記事は、細川家と家臣による「内輪」の集まりであることが述べられている。

 「細川侯爵家執行の龍田祠堂における藤孝公三百年祭は、二日、及び三日の本紙上に詳報せし通りの順序により、本日午前九時より、開催さるるはずなるが、右につき、県下の顕官等をいっさい案内せざる理由につき、浅井家扶の語るところによれば、今回の祭典はまったく細川家の私祭なれば、公人としての諸大官等を招待するは、かえって礼を欠くの感あるがため、特に案内状は差出さざりしものなるが、厚意により参拝さるる人があれば、侯爵家においては歓んで祭場に曳くの準備はなしおれりと」

田辺籠城衆の中には、細川妙庵公に仕えていた小林勘右衛門の名もあり、三百年祭には当時、子孫の小林ナツが幼少ながら小林家戸主として参列した記録が、上記「九州日日新聞」明治43年10月2日付け紙面と、細川家の家政所の記録に残っている。

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