「先祖附」は、肥後細川藩が藩士に家系を提出させたもの。熊本県立図書館蔵の先祖附によると、明治維新時の藩士だった小林恒太郎の初代に関して、次の記録が残っている。 続きを読む
【室町】明徳の乱を題材にした能「小林」
明徳2年(1391年)、山名前陸奥守氏清と山名播磨守満幸が足利義満に背いて兵を挙げた「明徳の乱」を題材にした能がある。「小林」という名の作品で、世阿弥の時代より以前につくられ、現存する数少ない「古作の能」として知られている。 続きを読む
【事典】高山党
【明治】敬神党の“外様”春日寺塾派
明治9年、政府の洋化政策に反発して熊本鎮台を襲った「神風連の乱」を起こした熊本敬神党の中で、小林恒太郎は計画から挙兵まで、枢機に参与する参謀の一人に数えられるが、“外様”的な存在であった。 続きを読む
【史料】小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹⑤
斯くてこの夜、小林家にては、遺骸を擁して親族一同夜伽したるに、妻マシ子は僅かに十九歳の妙齢なれば、その後事を如何に処置すべきかと話出でたるに、これを聞きたるマシ子は、決心の堅(かた)きを示さんため、独り部屋に入り、艶々しき黒髪を惜しげもなく、根元より切り落とし、心の丈を示したれば、母をはじめ、座にありし人々、何れも涙に面を掩はぬは無かりき。 続きを読む
【史料】小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹④
訣別の宴も済みたれば、三人は同じく湯を以って身体を洗い清め、小林は衣を改め、鬼丸、野口は衣紋を正し、三人相携えて、母を初め一同の前に坐し、小林は母に向ひ、先立つ不幸の罪を詫び、事ここに至りては、割腹の外なきを述べしに、母は、なに、相済まぬ事のあるべき。安心して快く死すべしと慰め、姉妹にも暇乞いを為し、それより妻を別室に伴ひて行きて、己の死後、離婚再縁の事を頼みたり。 続きを読む
【史料】小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹③
妻と妹とは、小林の家を出でし以来、朝夕冷水を浴びて、小林の武運を神前に祈りいたるが、二十七日夜十二時すぎ、小林は鬼丸、野口の両人と相携へて、突然帰り来り、屋外より家人を呼びたれば、妹は走り行きて表口を開けんとせしに、折から陰暦十一日の月は、皎々(こうこう)として半天に懸かり、四隣、いと物寂しきうちに、三人は静かに庭前なる梅樹の下に、月に照らされて佇み居りたり。 続きを読む
【史料】小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹②
如何にも多忙の様なりしが、二十四日の朝に至り、酒肴を神前に供へ、形の如く拜礼を済し、やがて妻マシ子と妹アサ子とを己が居間に招きて云ふやう、今夜いよいよ、鎮台に打入りて、平素の志を為さん筈なり。夕刻に帰り来れば、何くれと用意し置くべし。また、神前の御供へを取り下げて、料理し置くべしと命じて出で行きたり。 小林はこの日、何くれと、挙兵の準備について奔走し、午後に至り、坂本茂を新屋敷に訪ひしに、小国に赴きたる留守なりしかば、小林は姉なる坂本の妻に向ひて、近辺まで来りたればとて、それとなく暇乞ひし、夕刻に至りて帰り来り。 続きを読む
【史料】小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹①
小林家に於ける鬼丸競(きそう)、小林恒太郎(つねたろう)、野口満雄三人の、壮烈なる割腹を叙するに当り、先ず小林恒太郎の平生と、出陣の状況を記すべし。 続きを読む
【明治】神風連の乱における小林恒太郎の言動
肥後熊本の地で明治維新を迎えた小林恒太郎は、明治9年に起きた神風連の乱に加わり、こと敗れた後、割腹する。乱を取り上げた書の中には、小林恒太郎の言葉が記録されている。 続きを読む