妻と妹とは、小林の家を出でし以来、朝夕冷水を浴びて、小林の武運を神前に祈りいたるが、二十七日夜十二時すぎ、小林は鬼丸、野口の両人と相携へて、突然帰り来り、屋外より家人を呼びたれば、妹は走り行きて表口を開けんとせしに、折から陰暦十一日の月は、皎々(こうこう)として半天に懸かり、四隣、いと物寂しきうちに、三人は静かに庭前なる梅樹の下に、月に照らされて佇み居りたり。
冬枯れの梅樹の下に、月光を浴びて立ち居たる光景、何とも云へぬ凄絶のさま、今もなお、眼に映じて忘れ難しと、妹は常に人に物語れりと云う。 三人は座敷に通り、小林は母に対し、ただ今帰りたりと挨拶し、それより共に二階の物置の中に入りて、両三日寝ざれば、ゆっくり眠りたし、家中物静かにしてくれよとて、其儘、寝に就き、翌朝七時頃に至りて目を覚ましたり。
斯て朝餐を喫し、直に姉婿坂本茂を迎へんとて、丁稚の丈作を走らせたれば、坂本は直に訪ひ来りぬ。 小林は、具に挙兵の仔細を物語り、二十四日以来の顛末を告げ、吾等は、今一度は是非是非、秋月か山口かに赴きて、再挙を計りたければ、世間の形勢を探りていただきたしと依頼しぬ。坂本は快く之を引き受けて、出で行きたるが。
此時小林は、母に向ひて、佩(は)き居たる伝家の宝刀の鋸の歯の如くなれるを示し、斯くなる迄働きたりと云へば、鬼丸もまた、吾もこの通りなりとて、その刀を抜きしに、これまた歯は鋸の如くなり居り。野口は、余は奮戦中に、本刀折れたれば、この差添を用ひたるに、それすらも斯くなりしと示したりと云ふ。
坂本茂は、当時、郷党中の先輩たる山崎定平を訪ひ、また、伊藤甚助を訪ひたるに、両人より秋月も山口も形勢不可にして、到底再挙の見込みなしと聞き、且つ同志の某は何処にて自殺せり、某は何処にて捕はれたりなど、聞きしを以って、坂本は午後三時頃、再び小林宅に来りて、その旨を報告せしかば、小林は野口、鬼丸とともに、斯くなる上は、万事休せり、速に死するの外なしとて、ここに潔く割腹するに決したり。
小林、鬼丸、野口の三人は、一般の形勢を観て、到底事を為すべからざるを知り、割腹に決せしかば、小林は別れの盃を酌み交すべく、その準備を命じ、下戸なる野口のために、氷砂糖など用意せしめ、家族と共に、一同訣別の宴を催したり。時に十月二十四日午後四時過ぎなりき。小林は久方ぶりに、熱燗にて甘しとて杯を挙げ、鬼丸は左の遺書を認めたり。
内奸臣を誅鋤し、外醜夷を掃攘し、万民塗炭の苦を救はんは、積年の志なり。今戦敗れて、其実効立たざるを恨む。なお同盟の士を募り、再び事を挙げんと欲するも、道に於いて聞けば、事を與にするのは士、あるいは縛に就くと。余等情に忍びず割腹して畢る。
明治九年九月十二日
小林 長保
野口 守光
鬼丸 親臣
九月十二日とは、同志の常に用い来れる陰暦を執れるなり。野口もまた、筆を取りて、己が姉に送るべき遺書を認め、兄知雄は城中に戦死したれば、継母の世話を依頼し、且つ姉に対して、幼少より鞠育されし鴻恩を謝したり。継母は、元は妾なりしが、その後、本妻に直り、この時は高瀬の自宅に帰りて、別居したり。