【戦国】大永の五月崩れ

 伯耆国の守護山名家の滅亡は、大永4年(1524年)5月――。隣国出雲の戦国大名・尼子経久が伯耆に侵攻して山名方の諸城を落とし、守護大名の山名氏久を伯耆の国から追い払ったとき、と言われてきた。いわゆる「大永の五月崩れ」と呼ばれる事件だ。後に細川家の家臣となる小林家の先祖附に、一族の多くが戦死した「山名家没落の節」という記述は、伯耆山名家の滅亡のことを指すと思われる。

 「大永の五月崩れ」は、1660年ごろの成立したとされる、毛利家側の立場から書かれた軍記物語「陰徳記」に記述されている。

 (尼子)経久ハ当正月中旬(大永四年)ヨリ伯耆ノ国ヘ発向シ、山名ト数カ度合戦ニ及ケルカ、与土井(淀江)・天満・不動ケ嶽・尾高・羽元石(羽衣石)・泉山以下数ケ所ノ城郭ヲ責落シケル間、山名入道国ニ堪エズ、因幡ヲサシテ逃入、其後肥後ノ宇土ノ屋形ヲ頼リ、九国ニ下リケルト聞エシ。(陰徳記巻第五)

 一方で、大内義隆が周防・長門の軍勢を率いて安芸国に入り、当時、尼子氏に従っていた安芸・吉田郡山の毛利元就は尼子経久に出兵を乞う場面に続く一説だ。

 山陰・山陽の支配をかけた大内・尼子の抗争は佳境に入っており、尼子氏も伯耆を先に片付けた上で、大内との決戦を志向したようだ。

 山名氏は戦国大名化に失敗。国人層を抑えられなかったようで、伯耆守護としての存在感を失っている。国人層から新たな権力の台頭も、他国を圧倒するほどには育っていなかった。

 こうした状況の中での伯耆山名家の滅亡だったが、「大永の五月崩れ」に関する最近の研究では、尼子氏の伯耆侵攻は、従来“通説”とされてきたように一気に成し遂げられたではなかったとされる。

 永正年間以降、徐々に伯耆国内への勢力を浸透していったことが近年の研究で明らかにされつつある。岡村吉彦氏らの研究である。(岡村吉彦氏「戦国時代の伯耆国における戦乱史」鳥取県中世城館分布調査報告書第2集=鳥取県教育委員会など参照)

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