伯耆の山名氏は、隣国の戦国大名・尼子経久が率いる出雲の軍勢に飲み込まれてしまった。上野の国からやって来た山名時氏が、伯耆に本拠を構えて四方を切り従え、一時は、西日本に覇を唱えた一族である。
山名氏は、惑星のような動きで足利幕府を翻弄し続けてきた。喩えは悪いかもしれないが、いわば「トリックスター」。応仁の乱で戦った管領・細川家の“上品さ”と比べると対照的である。
時氏の山陰進出から約200年。野心の塊のような一族も、時代の波に乗り遅れてしまったようだ。
伯耆山名家の崩壊は、守護だった山名氏だけでなく、多くの伯耆国人領主ごと、因幡や但馬に追い出された大永4年(1524年)の「大永の五月崩れ」として、今に伝わっている。
山名時氏に従ってきた上野・小林党の裔もこの時、多くが討ち死にしたと思われる。肥後細川家に仕えた小林家の初代は、幼少ゆえに生き残った小林丹波の子と伝えられている。