山名一族に対する一般の評価は低い。軍記物の中では“弱敵”呼ばわりしているものさえある。現代の歴史小説にも取り上げられることはない。早々と滅んでしまい、後世への代弁者を持たなかったせいだと思う。
山名家のうち、伯耆守護を務めた伯耆山名家が滅んだのは、大永4年(1524年)ごろ。隣国・出雲の戦国大名尼子経久により、国人領主たちもろとも、国を追い出されてしまった。その尼子氏も毛利元就との抗争に敗れて滅んだ。毛利氏も結局、天下までは届かなかった。
たとえはよくないかもしれないが、戦国パワーゲームの一回戦敗退といったところ。
歴史は、勝ち残ったものが書く――。これが世の常。よっぽど善戦するか、人々の心の琴線に触れる事柄を残さない限り、敗者の扱いは無残だ。普通ではだめなのである。
江戸時代に書かれた軍記物「陰徳記」には、こう書かれている。尼子側の武将のエピソードで、毛利氏との戦いに油断しないよう、「山名のような弱敵相手の戦とは違う」と諌めている。
現代でも似たようなもの。著名な歴史小説家は「山名の治世には何らみるべきものがない」とエッセーの中で酷評している。
「六分一衆」と周りから称され、一族で全国の六分の一を領国とし、幕府側、反幕府側、どちらに立ってもすこぶる強かった。ヒール役も似合う剽悍さがあり、それなりに小気味いいと思うのだが……。