神風連の乱に参加した小林恒太郎は、挙兵が失敗に終わった後、鬼丸競、野口満雄とともに自刃した。小林の自宅でのことだ。自宅の場所は、現在の熊本市内坪井町の古地図に小林恒太郎宅の記録があるほか、同市山崎町にも小林家の住まいがあったことが伝わっている。どちらが最期の地であったのだろうか? 続きを読む
【江戸】寛永五年・小林伝三郎江戸への御供を望む
「熊本県史料近世編」第二には、「寛永五年十一月五日覚」という、小林伝三郎が江戸参府に連れて行ってほしいと希望を出していた記録が残っている。 続きを読む
【室町】大内氏実録に登場する長刀「小林」
明徳2年(1391年)の明徳の乱で、山名氏清の武将・小林上野守(介)は京都・内野で幕府側の先鋒を務めた大内義弘と一騎打ちの末、敗れる。この時、小林を討ち果たした大内義弘の長刀が「小林長刀」として、大内家が滅亡するまで家宝として残されていたことは、軍記物語「陰徳記」に触れられている。「大内氏実録」(明治18年、近藤清石著)の世家第三「義弘」の中には、さらに詳しく紹介されていた。 続きを読む
【明治】旧功臣の子孫を召す
細川幽斎公没後三百年祭が行われた明治43年(1910年)10月の「九州日日新聞」には、祭典に関する記事が連日掲載された。熊本市黒髪(当時・黒髪村)の細川家御祠堂で執り行われた祭典は、この年の4月に開かれた市民挙げての「三百年祭」とは趣を異にし、細川侯爵家の「私祭」的要素が強かったようだ。 続きを読む
【明治】細川幽斎公三百年祭
2010年は細川幽斎没後四百年にあたる。熊本市では幽斎公四百年祭が開かれ、戦国時代の文武を代表した武将の顕彰が行われる。100年前の明治43年(1910年)にも三百年祭が開かれていた。熊本で当時、発行されていた九州日日新聞は「三百年祭彙報」というコーナーを設けて、連日、報じていた。 続きを読む
【室町】「山名家没落の節」は明徳の乱?
「先祖は小林民部丞と申す者、伯州山名家の分流にて、丹波国に在城仕り居り申し候。その後、山名家没落の節、一族、いずれも戦死仕り候由…」。肥後細川家に明治維新まで仕えた小林家の「先祖附」の一節である。山名家没落の節とはいつのことを指すのだろうか――。 続きを読む
【戦国】国人領主、日野山名氏
伯耆国日野郡の国人に、日野山名氏と呼ばれた山名氏の一族がいた。山名義幸の子孫と伝えられ、生山城(亀井山城)を本拠に室町時代から戦国時代までを生き抜いた。 続きを読む