【明治】内坪井の借置と「船場なる自宅」?

 神風連の乱に参加した小林恒太郎は、挙兵が失敗に終わった後、鬼丸競、野口満雄とともに自刃した。小林の自宅でのことだ。自宅の場所は、現在の熊本市内坪井町の古地図に小林恒太郎宅の記録があるほか、同市山崎町にも小林家の住まいがあったことが伝わっている。どちらが最期の地であったのだろうか?

「内坪井之絵図」(新熊本市史別編第一巻絵図地図上所収)

「内坪井之絵図」(新熊本市史別編第一巻絵図地図上所収)

 熊本市史別編第一巻絵図地図上に「内坪井之絵図」が収録されており、そこに小林恒太郎の居宅が記されている。近所には、横井小楠や佐々友房、宮部鼎蔵、上野堅吾ら、幕末から明治初期にかけて活躍した細川藩士らの家があった。

 市史の解説によると、内坪井地域は藩士のうちでも知行取りの屋敷がったところだという。大きな屋敷は少なく、小林恒太郎ら百石から二百石程度の藩士らが多かったようだ。

 小林恒太郎の名が書き込まれた一角が描かれているが、「借置」とも記されていた。他にも「借置」の表記がある武家屋敷があるが、その意味について、解説では「不明」としている。

 現在、この地域には高校ができているが、そのほかは一戸建ての住宅が多く、当時の街路が比較的残っているようだ。小林恒太郎宅のすぐ近くには、旧制第五高等学校の教師として明治29年(1896年)に来熊した夏目漱石が暮らした家が今もあり、「夏目漱石内坪井旧居」として公開されている。

 一方、神風連の乱の経緯を詳しく記した「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)では、小林恒太郎の自宅については、「小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹」の項において、「船場なる自宅」として登場する。

 明治43年(1910年)の刊行で、遺族らをはじめとして乱の関係者で存命している者が多かったころなので、記述内容の信頼性は高い。

 実際に、前記の熊本市史別編第一巻の「山崎之絵図」には、宝暦5年(1755年)~宝暦9年(1759年)(推定)のころの山崎一帯の武家屋敷が記載されているが、船場三丁目に、当時の小林家当主の「小林次兵衛」の名が出てくる。

 現在の熊本市立慶徳小学校(熊本市山崎町)の正門のあたりだったと思われる。小林次兵衛宅は、その100年前に描かれたとみられる「山崎之絵図」でも、「小林伝三郎」宅として記載。細川家の熊本入府後の早い時期から、小林家はこの船場の地に居宅があったと考えてもいいだろう。

 それでは、神風連の乱当時の小林宅は、内坪井だったのか、船場だったのか?

 材料不足で確定できない、というのが、今のところの答えだ。明治7年(1874年)に旧藩士の禄高を調べた「改正禄高等調」という史料が残っているが、小林恒太郎の住所と思われる表記がある。「第一大区七小区五十六番屋敷」だったという。これがわかれば、解決するのではないか、と思われれるが、これも想像だ。

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