「改正禄高等調」という明治初期の公文書の写しがある。小林恒太郎に関する記述は、二項目ある。
一つは、明治7年(1874年)2月の記事――。
元高擬作百五十石。改正高二十八石七斗 小林恒太郎 (従前五等官非役)
右の通り相違なく候。以上 第一大区七小区五十六番屋敷
明治七年二月 士族 小林恒太郎 (印)
廃藩置県から始まり、幕藩体制解体の総仕上げとして秩禄処分に至る過程での小林家の禄高が記録されている。
次いで明治9年の記事。
明治九年十月二十八日、暴動に加わり、自刃。
養子小林仁九郎 三十二年四ヶ月
白川県権令 安岡亮介殿
明治十一年二月十九日 願いの通り、聞き届け候
小林恒太郎の自決の届け出と、養子による小林家の継承の願い出の記録のようだ。
白川県は、熊本県の前身の一つ。安岡県令は、神風連の乱で襲撃され、3日後に死去している。養子縁組を聞き届けたのは、乱後1年以上経った明治11年2月であった。
ここで、小林恒太郎の養子として登場する「仁九郎」は、小林家の位牌では、「二九平」となっている。 恒太郎には、姉と妹がおり、姉は神風連の乱当時、すでに嫁いでおり、家には妹のアサがいた。恒太郎の妻、マシ子は嫁いできたばかりで子はなく、恒太郎自刃後、急きょ、アサの夫に迎えられ、婿養子に入ったのが仁九郎だ。