小林勘右衛門の次世代から、細川家に仕えた小林家は二家に分かれる。幕末の当主は、小林恒太郎と小林貞之助。小林貞之助系の「先祖附」では、初代の勘右衛門の先祖についての記述があった。そこに登場したのが、「小林民部丞」という名前だった。
貞之助の先祖附と、これまで紹介した恒太郎の「先祖附」と、「綿考輯録」との違いは、冒頭の4行。違いだけを抜粋して紹介する。
先祖は小林民部丞と申す者、
伯州山名家の分流にて、丹波国に在城仕り居り候。
其後、山名家没落の節、一族、何れも戦死仕り候由。
右、民部丞の玄孫、小林丹波と申す者、
幼少に御座候ひて、同国篠山と申す所へ引き籠り押し移り居り申し候由、承伝申し候。
(以下、意訳)
先祖は、小林民部丞と申す者。伯耆の国の山名家の分流で、丹波の国に在城していた。
山名家が没落した際に、一族はいずれも戦死した。
民部丞の玄孫である小林丹波と申す者は、幼少だったので、丹波の国の篠山に引き籠ってた、と伝えられている。
以下、貞之助、恒太郎の「先祖附」、「綿考輯録」とも、ほぼ同じ内容で、田辺籠城への経緯が続く。
寛永7年(1630年)の勘右衛門死後、嫡子半三郎と二男伝三郎に各百五十石の知行が与えられたことが、「綿考輯録」巻五に記されている。本家の先祖附に、より詳しい記述が残った、と考えていいだろう。
小林勘右衛門の先祖とされる小林民部丞――。山名と小林民部丞の組み合わせは、太平記に登場する山名時氏の執事の小林民部丞がまず、頭に浮かぶ。