【室町】明徳の乱に出陣したのは、小林重長?

  明徳の乱(1391年)に出陣したのは、「明徳記」では、小林上野守義繁とある。一方、「丹波史を探る」(細見末雄著、神戸新聞総合出版センター)によれば、小林重長であったり、小林修理亮であったりと、その表記が揺れている。以下、「丹波史を探る」を見てみる。

 まず、重長として登場するのは、「荻野氏と荻野朝忠」の章(28ページ)。明徳の乱には、当時丹波守護であったとする山名氏清の守護代小林重長に従って、京都の桂川に臨んだ荻野美作守重定とその弟重国が「明徳記」に出てくる。この戦に重定兄弟は久下・長沢らとともに、桂川を渡り、幕府方へ寝返って細川頼之の陣に入ったため家は安泰であったことを紹介するもので、小林ら山名方の動向に主眼を置いた文章ではない。

 次いで出てくるのは、「新屋荘の押領と久下氏の盛衰」の章(37ページ)。明徳の乱には、当時の丹波守護山名氏清の守護代小林修理亮に率いられて、丹波国人らとともに将軍の軍勢と桂川を挟んで対陣していたけれども、丹波軍は河を渡って、将軍方の細川頼之に寝返ったので、敗戦をまぬがれた、と紹介され、「荻野氏と荻野朝忠」の章とは違い、官職名で登場している。

 「明徳記」では、官職名は「上野介」あるいは「上野守」(親王任国のため、正しくは上野介)で、名は「義繁」として登場する。山名氏清から見れば、先代の師義(兄)、先々代の時氏(父)時代の重臣で、丹波守護代を務めた重長(官職名は民部丞)をあてはめる根拠が、出典も出ていないので、いまひとつ明瞭ではない。

 ただし、明徳の乱の武将を小林重長にする説は他にもある。「能『小林』の周辺」(村田勇司、学芸国語国文学25号、1993年3月、東京学芸大学国語国文学会)である。

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