【戦国】勘右衛門の父「丹波」

 細川藩の公式の記録ともいえる「綿考輯録」巻五に記されている小林勘右衛門の出自は以下の通りだ。

小林勘右衛門
父は小林丹波と申、伯州山名家之分流にて、山名家没落之節、
丹波国笹山と申所に引籠居候由、忠興君丹後御在国、
妙庵主愛宕御登山之時、丹波倅勘右衛門御児小姓被召出候、
妙庵主田辺御籠城被成候に付、松山権兵衛・宮村出雲、
一列に被召仕候由、此節幽斎君御前江召出、御腰物拝領、
其後忠興君心操之様子被聞召、御知行百五拾石被下候、
寛永七年十一月病死、嫡子半三郎に百五拾石、
二男伝三郎に百五拾石被下候、今の勘太郎、勘右衛門等が祖なり

 以下、現代文に直す。

小林勘右衛門の父は、小林丹波と申す。 伯耆国の山名家の分流で、山名家が没落した際に、丹波国の篠山の地に引き籠っていた。
忠興が丹後にいたころ、弟の幸隆は愛宕山におり、この時、丹波の倅の勘右衛門は、小姓として召し出された。
幸隆公が田辺籠城をなされ、松山権兵衛、宮村出雲とともに召し仕えた。この際、幽斎の御前に召し出され、御腰の物を拝領した。
その後、忠興公が心操の様子をお聞きになって(?)、知行として百五拾石を下された。
勘右衛門は、寛永七年十一月に病死した。嫡子半三郎に百五拾石、二男伝三郎に百五拾石を下された。今の勘太郎は、勘右衛門等が祖先である。

 おおむね、先祖附記載の内容と等しいが、勘右衛門の父・丹波、山名家、丹波の篠山、二代目の時、家が二家に分かれたことが書かれている。嫡子・半三郎系の「先祖附」を見ると、そこには、もう少し詳しく、小林一族の出自について紹介してあった。

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