【明治】小林マシ子と池辺三山

 神風連の乱に参加した小林恒太郎の妻・マシ子の事跡に関連して、「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)には、もう一つ、気になる部分がある。

 序文に、「敬神党の事は、大野、加屋二氏を地下に起こして自ら説明せしめても、能く当世の人をして了解せしむるを得べきや否や、疑はしきことの極みなり」と書いた三山野人は、池辺吉太郎のことだ。神風連の乱の翌年に起きた西南の役で、熊本隊を率いて西郷軍に身を投じた学校党の首領・池辺吉十郎の長男である。

 吉太郎は、吉十郎が処刑された後、マシ子の兄、鎌田景弼を頼っており、その支援で上京し、学問を積んでいる。さらに、鎌田が県令時代の佐賀県で学務課に奉職したこともあった。

 もしかしたら、この時、鎌田の妹のマシ子のこと、神風連の乱のことも知ったのではないか、とそんな想像もできる「人と人のつながり」だ。

 ちなみに、池辺三山はその後、明治30年代には、朝日新聞の主筆となり、対露関係では強硬派の論調を張った。序文でも、敬神党について、「総てこれらの人々を如何にかして日露戦役の時まで存命せしめて、満洲の野に踊り出でしめたら如何なりしぞなど、何人も思ふことなるべし」と結んでいる。

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