小林恒太郎は、神風連の乱では、首領・太田黒伴雄以下、主力70人とともに、熊本城内の砲兵営(砲兵第6連隊)に斬り込んだ。鎮台襲撃後は、金峰山に登り、再挙を期すものの果たせず、自宅に戻り、鬼丸競、野口満男とともに自刃する。
恒太郎には妻がいた。マシ子という。乱の半年前の明治9年3月に結婚。マシ子は19歳。恒太郎自刃後、小林家ではマシ子をそのまま寡婦にするに忍びなく、なんとか、実家に帰そうとしたものの、マシ子自身が承知せず、そのまま、小林家に残った。
しかし、その後、実家の鎌田家が家を挙げて東京に移る際に、強いて同行させられた。マシ子の兄が、初代の佐賀県令(明治16年~21年)の鎌田景弼で、鎌田が佐賀県令時代に、ある人と再婚して子どももできたものの、夫の素行が悪く、再び、鎌田の実家に戻ったという。
これらのことは、明治43年に出された小早川秀雄著「血史熊本敬神党」と石原醜男著「神風連血涙史」に詳述されている。
マシ子はその後、小林の家を訪ね、「貞操を全うする能はずして、再嫁する事となり、今日不幸の身となれるは、畢竟神罰なり」と涙を流した。数日の滞在の後、実家に帰ったが、最期は「神経を痛め、自ら刃の上に伏して死したりと云ふ」と両書は伝えている。
小林の家に現在まで伝わる話では、「恒太郎の幼い妻は、家に帰した」というところまでで止まっている。 「大義」の名のもとに、死ぬもの、殺されるもの、残されるもの――と、悲劇は連鎖の波紋を広げるようだ。