【明治】弓術と敬神党

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍を圧倒した洋式歩兵の威力は、細川藩にも、よりいっそうの兵制改革の必要性を感じさせた。熊本の大江に演武場ができ、藩士には西洋流歩兵操練の訓練参加が求められ、明治3年(1871年)には、藩校「時習館」での武道教授が差し止めとなった。保守的な人々は、師範が開く道場での稽古を続けたようだが、わが国古来の武術の衰微は顕著なものだったといわれる。

 「肥後武道史」(熊本県体育協会編)には、当時の熊本の弓術界の様子を以下のように記録している。ここで紹介する弓術の流派は日置流道雪派である。

田上師範はもと、千反畑町旧物産館付近にその住まいがあり、そこに以前の門人等が私に話し合って、佐久間隼太などいう人が引廻しとなり弓術の稽古に出掛けたことから、いったん、復活しかかった事がある。坂本茂、小林常太郎、林田弾助その他、敬神党の人々などが稽古に行き、九年から十年の役にかけて同好の士もだいぶ減り、射場は兵焚にあってしまうというような事変があり、ここにまったく弦の音は一時その跡を絶つにいたったのである。

 田上師範とは、日置流道雪派の宗家を継いだ田上儀右衛門である。小林常太郎は「恒太郎」の誤り。林田弾助は、神風連の乱では富永守国と行動を共に、最期は自刃した林田鉄太が謙助と名乗っていたことが、「神風連血涙史」に出ていることから、林田鉄太ではないか、とみられる。「千反畑町旧物産館付近」は、現在の熊本市南千反畑町のあたりだ。

 坂本茂は、小林恒太郎の姉・リツ子の夫で、敬神党として行動した記録は残っていないが、乱の前後に恒太郎が頼りにしていた状況が「血史熊本敬神党」や「神風連血涙史」などに登場。挙兵に敗れて自宅に潜伏した恒太郎の求めに応じて、秋月や萩の状況を探り、知らせている。

 坂本は以後も弓術の研さんを続け、後に日置流道雪派の宗家を継ぐことになる。

 細川護久公らが積極的に進めた兵制改革は、保守派の反発を招くが、時代の流れに抗することはできなかった。神風連の乱や西南戦争に保守派が多く参加して死んでしまった中で、古来からの武術の灯も消えかけた。

星移り物変わり、時勢の変遷、兵法の差違。武器の改革などいう事情が原因をなして、弓は切って杖にするとか、矢はこれに手を加えて機織の用に使うとかいう風に、十年の後にいたってはようやく長物となって弓術は絶えてしまった。

 肥後武道史は記している。その後、他の武術とともに弓術も見事、復活を果たすのだが、武術としてではなく、武道として生まれ変わったのかもしれない。

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