小林恒太郎の義理の兄・坂本茂は、弓術の日置流道雪派を学び、維新から神風連の乱、西南戦争と続く動乱の中でも弓を引き続け、師範にまでなっている。「肥後武道史」には、大正13年(1924年)に坂本茂に「範士」の称号を贈られた時の記事が掲載されている。
「肥後武道史」第16章弓術・第4節明治近代の諸師範の項から抜粋して紹介する。
坂本弓術範士
大正十三年七月、熊本弓術界の先達坂本茂翁に弓術範士の称号を授与された。ちなみに範士を授けられしものはその頃、全国で七名で、九州では氏一人であった。六月四日武徳殿に於いて、その披露に兼ね、八十歳の高齢を祝する意味の下に門弟をはじめ、有志多数を招待した。
【坂本範士実話】
私が弓術に志したのは十三歳の時でありました。その頃私の家は、水道町にあり、当時、細川藩の弓術の先生であった田上儀右衛門氏の門弟となりました。田上先生の邸宅は今の県庁内衛生試験場付近にありました。田上先生は明治九年に物故されましたが、その当時一緒にやっていたものは皆故人となっています。
越えて維新となり、明治十五、六年頃であったと思いますが、佐々友房、浅山知定両氏の発起で鎮西館に射場を作ることになりました。射場はただ今の祠堂前から東の方に作ったのです。
当時、同志は弓術に熱狂したものでした。その頃、私は川尻に在宅していたのですが、川尻から毎日通っていました。同志もかなり多く三、四十人ばかりでいずれも競うて張りの強い弓を張ったものでした。
一方、田上先生が逝かれて、同氏の令弟野上文吾氏を先生に推し、氏が本庄の貫角太郎氏宅におられた関係上、そこにも射場を開くことになりました。
かくして野上先生も故人となり、その後は高弟の生駒新太郎氏(のち範士)を先生として、私たちは弓道を始めたものです。
その後、氏は他界し、その後に宇野東風氏の厳父宇野丈九郎氏(範士)について弓道を学びましたが、氏は八十八歳の高齢をもって先年、死去され、門人の推薦により、不肖私がその後を継ぐようになった訳であります。
今旧藩時代より現今のことなどを思い合わせれば、まことに、今昔の感に堪えないものがあります。この間幾多の変遷、幾多の盛衰があったことはもちろんであります。
鎮西館の射場時代はずいぶん盛んなものでありました。日置派で県下でも一番多く、現在、私の門人のみで、千六百余に達しています。殊に天草の如きは最も盛んで五百名近くの門人ができています。
しかし、旧藩時代と現今の弓術とはよほど趣を異にしています。もちろん旧幕時代は、弓は武器でいざ戦争といえば弓がなければならぬ関係で当時、同志の真剣なことは想像以上であります。それが現今では体育奨励の意味になったのは時代の推移で、またそれが当然であると思います。
斯道に入ってから七十年、今回図らずも範士の栄誉を授けられるに当たりまして感謝に堪えない次第であります。老いたりと言えども、今後一層斯界のために充分貢献したいと思います。
以上、昭和49年(1974年)に青潮社から出された復刻版の301~302ページから転載した。旧仮名を直し、一部、句読点を追加した。