神風連の乱当時、小林恒太郎には母と姉、妹がいた。姉はすでに家を出ており、その嫁ぎ先が坂本茂である。恒太郎は坂本のことを信頼していたようで、挙兵の日の朝、母と妹には鎮台へ討ち入ることを明かし、その日の午後には、新屋敷(熊本市新屋敷町)に住む坂本宅を訪ねている。
乱後、鬼丸競、野口満雄を連れて自宅に落ち延びてきた恒太郎は、すぐに坂本に助けを求めた。同盟を結んだ萩、秋月での再挙を図るため、周辺の情勢を探ってもらっている。悲観的な状況が明らかになって3人は自決する。
坂本はその最期に立ち会えなったことを、非常に残念がっている。篤実な古武士然とした人物だったようだ。
弓の師範だったことが伝えられているが、丹後以来、細川家家臣に弓術指南をしてきた日置流道雪派弓術の第14代宗家に坂本茂の名があり、同一人物と推定される。「日置流道雪派射法綱領」(採釣園道場、昭和2年7月1日発行)が坂本茂の名で出されている。