神風連の乱を起こした熊本敬神党の者たちを、事件直後に熊本県庁から内務省に送られた報告では、「神癖家」と呼称していた。「神風連」という名自体も、そもそも神がかり的な敬神党の一党の異質さを指して、熊本の士族たちが付けた通称だ。「神癖家」の言葉には、より強い揶揄が込められているように感じる。 続きを読む
【室町】「鬼ここめ」と恐れられた小林上野介
山名一族が足利義満に叛いた明徳の乱(1391年)で、小林上野介(守)義繁は、周防国守護の大内義弘と一騎打ちの末、討ち取られてしまう。その勇猛ぶりは「鬼ここめ」と畏怖されていたことが、乱を題材にした軍記物語「明徳記」に書かれている。バケモノのような強さだった、ということだ。 続きを読む
【事典】「騎兵と歩兵の中世史」
吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの一冊。著者は近藤好和氏。騎馬から徒歩へ、戦闘形態が移り変わっていく事例として、明徳の乱の大内義弘と小林義繁の一騎打ちを取り上げた。 続きを読む
【戦国】本能寺の変と愛宕山
【室町】はみ出さざるを得なかった者たち
【事典】田辺城籠城
慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝を討つために、諸国の軍勢を催して会津に向かった。その間隙を衝くかたちで、石田三成が反徳川勢力を結集して挙兵。天下分け目の関が原の戦いに向けて戦機が熟していった。
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【戦国】愛宕山と小林丹波・勘右衛門父子
【雑感】山名氏の“ゴー・ウエスト”
群馬県高崎市山名町にある山名八幡宮の神馬像は、西を向いて建てられている。この地を名字の地とする一族は、戦乱の風雲に乗って、西国を活躍の場とした。平成元年(1989年)になり、その末裔たちが一族の故地に馬首を西に向けた神馬像を奉納したのだという。 続きを読む
【明治】神風連の乱と小林マシ子㊦
小林恒太郎、鬼丸競、野口満雄の3人は、再挙の企てを断念し、恒太郎宅で割腹して果てた。明治9年10月28日のことである。役所に自決を届け出て、検視を終えた小林家では、再び、マシ子の行く末のことが話題にのぼった。 続きを読む