【明治】神風連の乱と小林マシ子㊥

小林恒太郎の結婚相手探しは難渋した。母親が縁談を持ってきても恒太郎は頑として応じなかったらしい。ツタ子はついに、「自分が女親なれば軽侮して、かく、わがままを言うことなるべし」と怒る。母の意に従って妻を迎えることになるが、それがマシ子である。神風連の乱が起きる半年前の明治9年(1876年)3月のことだ。

 「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)では、この背景について、「明日なき身と覚悟せる小林には、いかに心苦しき結婚なりしならん」と記す。挙兵に向かって突き進んでいた時期であり、結婚をためらったのも無理はない、と同情している。

マシ子に対する申し訳なさを含んだ思いは、挙兵後の行動にも表れている。

10月24日に熊本鎮台襲撃に参加した恒太郎は、27日夜になり、自宅に戻ってくる。同盟した秋月や萩の動向を探り、再挙を図るが、警戒が厳しくて無理だとわかると、28日には自決を決める。

母に先立つ不孝を詫び、姉、妹に暇乞いをすると、19歳の妻を別室に伴った。そこで、自分の死後は離婚して再縁を求めるように頼み込んだ。

そもそも結婚自体が間違いだった、と臍を噛んだのではなかろうか。別室での夫婦の別れについて、「血史熊本敬神党」は書いている。

 小林は、この年若き婦人を生涯、寡婦たらしむることの無惨なるを想い、しきりに離別再縁の事を勧めしも、マシ子は断として肯んぜず。「わらわは不肖なれども、願わくは良人のために貞節を全うして、永く母上へ孝養を尽くしたし」と請いて、(小林の願いを)聴かざれば、小林は如何ともするあたわず、そのままになしおきたり――。

同書によれば、恒太郎はこのとき27歳。母の剣幕に押されて結婚を決め、若妻の抗議の真剣さに面食らい、離縁の申し出を引っ込めている。迷い、そして惑う姿は、良くも悪くも人間らしい。

恒太郎の人生は、自らが望んだであろう、武士らしい割腹で幕を閉じたが、残された人たちの物語は、まだ続く。

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