【戦国】本能寺の変と愛宕山

 本能寺の変の際、細川藤孝(幽斎)・忠興父子は、明智光秀に与せず、結果的に滅亡を免れた。丹後の国・宮津にいた藤孝らに変を知らせたのは、早足の異能を持つ早田道鬼斎という者であるが、そこには愛宕山下坊の住職・幸朝がかかわっていた。本能寺の変の前に、光秀が愛宕山に参籠し、西ノ坊では連歌会を催したことは有名だ。一方で、細川家も愛宕山が情報収集網の中に登場するのは奇縁というほかない。

 「綿考輯録」第一巻(巻四)に本能寺の変前後の様子が登場する。

五月廿九日、信長公御父子近臣僅の御人数にて御上洛、本能寺に御座候処、明智光秀逆心にて六月朔日の夜俄に洛に入、二日未明より本能寺を囲み、信長公生害させ参らせ、信忠卿も同日二条にて討れさせ給ふ、藤孝君は是よりさき、信長公御父子上洛、佐久間九郎も御勘気御赦免有て御供と聞へける故、御歓の御使者として、米田求政を被遣、求政は二男藤十郎(十二歳)十如院雄長老のもとへ入学の兼約有之故、幸と相具し、今出川相国寺門前の私宅に着する折柄、右騒動を聞、愛宕下坊幸朝と相談し、早田道鬼斎(武功の浪人成故求政育み置隠れ無き捷道十六里の道を三時計に着せしと云)を丹後にさし下し、御父子の御事を告奉る、三日幸朝よりの飛脚(道鬼斎也)宮津に来る、藤孝君・忠興君御仰天御愁傷甚し、暫有て藤孝君被仰候は、我は信長公の御恩深く蒙りたれば、剃髪して多年の恩を謝すへし、其方事光秀とは聟舅の間なれは彼に与すへきや、心に任すへしと有、忠興君御落涙被成、御同意にて倶に御薙髪被成候

 米田求政は細川家重臣。たまたま、京での公用のついでに私事を済まそうと私宅に立ち寄った時に、本能寺の変に遭遇。早田道鬼斎は「武功の浪人」で、快足の持ち主として米田求政が召抱えていたという。

 愛宕下坊幸朝とは、愛宕山下坊「福寿院」住職の幸朝である。米田求政が主君に急を知らせるに際し、愛宕山の住職が相談に乗るのは、少々、奇異に感じられる。

 本能寺の変が起きた天正10年6月。この年の3月には、藤孝の三男・幸隆が12歳で福寿院に入門。「福寿院記」によると、幸隆は幸朝の跡を継いで福寿院住職となり、幸隆還俗後は、丹後の一色家出身の幸能、次いで卜部家出身の幸賢がそれぞれ住職となるなど、細川家と福寿院は密接な関係があったことがうかがえる。

 冒頭の光秀の参籠に見られるように、愛宕権現・勝軍地蔵は戦国武将の信仰を集め、戦勝祈願が多かったことから、情報が集まる「結節点」であったことが推測される。

 また、天狗伝承を生んだ霊山でもあり、愛宕山伏と呼ばれる修験者が多く、その面でも細川家の諜報部門の一端を福寿院が担った可能性も否定できない。

 本能寺の変前後――。刻々と変わる情勢を正しく分析するには、正確な情報が欠かせない。光秀の愛宕山への参籠から連歌会、信長襲撃につならる一連の情報を伝達するうえで、福寿院は重要な役割をになったのではないか。

 そうした部署につくことになる幸隆は、純粋な出家というわけにはいかなかっただろう。「児小姓」として幸隆に仕えた小林勘右衛門は、何を求めて出仕したのであろうか?

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