【雑感】山名氏の“ゴー・ウエスト”

 群馬県高崎市山名町にある山名八幡宮の神馬像は、西を向いて建てられている。この地を名字の地とする一族は、戦乱の風雲に乗って、西国を活躍の場とした。平成元年(1989年)になり、その末裔たちが一族の故地に馬首を西に向けた神馬像を奉納したのだという。
山名八幡宮の神馬像

  坂東武士の西日本への進出は、一般的には鎌倉時代の元寇を契機としたものが有名だ。対蒙古戦準備のため、九州などに所領を持つ御家人が西遷してきた事例である。

 だが、山名氏は足利尊氏に従って、山名の地をあとにした。

 京を中心に各地を転戦し、足利政権樹立の過程を戦い抜いてきた。やがて将軍家にも逆らって、山陰・山陽諸国を実力で切り取って一大勢力となる。日本66か国のうち、一族で11か国を領し、「六分の一衆」と呼ばれるほどになった。

 応仁の乱では、ついに西軍の旗頭ともなるが、戦国時代の幕を開ける役割を演じたものの、その後は急速に勢力を失っていく。

 山名氏は、鎌倉幕府創業のころからの御家人だが、鎌倉時代末には「民百姓のごとく生きてきた」と「難太平記」は記している。著者である今川了俊の政治的立場がそう書かせたのだろうが、日本史の表舞台に立つようになるのは、足利氏について、西に向かって以降のことだ。

 新天地は、一族に活躍の場を与え、山名氏もそれに応え、日本で指折りの武の一族に成り上がった。

 西へ――。先祖が切り開いた地を離れ、馬首を西へ向ける山名一族の胸に去来したものは何だったのだろうか。

カテゴリー: 室町, 雑感 タグ: , , , , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください