鎌田景弼(1842〜1888)は幕末の細川藩士で、明治政府に出仕し、各地で裁判官などを勤めた後、明治16年(1883年)に佐賀県の初代県知事(県令)となった。妹のマシ子が熊本敬神党の小林恒太郎に嫁いでいるため、当サイト「小林党」との関連が出てくる。自身は学校党との繋がりが強く、西南の役で熊本隊を率いた池辺吉十郎(1838〜1877)の刑死後、遺児の面倒をみた。佐賀県知事時代の評判がよかったようで、佐賀市大和町都渡城には有志が建てた顕彰碑が残っている。
顕彰碑は、眼下に川上峡を望む宝塔山親正寺の境内にあり、昭和12年(1937年)に建立された。この風景を愛した鎌田は、しばしば訪れていたという。碑文は、残念ながら見えにくく、内容は確認できなかった。
鎌田は病をえて亡くなるまでの5年余を佐賀県知事をつとめ、道路や河川の改修、学校の建設などインフラ整備に尽力した。県民の大きな反発を受けることなく事業を進めることができたことから「良政」だったのだろう。九州の鉄道建設にも着手しており、福岡、熊本の三県知事で協力して九州鉄道の建設に乗り出したことが功績に数えられている。
顕彰碑の位置と鎌田知事の業績については、佐賀市教委文化振興課が運営する佐賀市地域文化財データベースサイト参照。※ちなみに、顕彰碑のある親正寺は日蓮宗の寺院で、文禄・慶長の役で、肥前名古屋に向かう肥後領主の加藤清正との逸話(「書きかけの御題目」)が残っている。熊本とのかかわりがこんなところにもあるので、興味ある方は親正寺のHPを。
小林恒太郎と鎌田景弼の妹マシ子の結婚は不幸に終わった。恒太郎は結婚後間もなく、神風連の乱で自刃。子がなないまま寡婦となったマシ子は、のちに小林の家を出て、鎌田景弼のもとへ帰ることになる。佐賀でも暮らしていたという。※関連ブログ「神風連の乱と小林マシ子」。
佐賀の鎌田のもとには、前述した池辺吉十郎の遺児・吉太郎も身を寄せていた。のちの池辺三山である。朝日新聞の主筆として、今日の朝日新聞発展の基礎を築いたとも言われる明治時代のジャーナリストだ。
鎌田景弼の墓所は、熊本市北区池田にある。熊本藩士の古い墓が集まった山中の墓地で、一族の墓の中、維新政府での活躍のゆえか、ひときわ大きい。「酔石軒鎌田君景弼墓」と刻まれていた。