小林党の歴史の中には、カタナにまつわる物語がいくつか見つかる。山名氏清が足利義満に叛いた「明徳の乱」(1391年)、関ヶ原の戦いの折り、西軍一万五千余の攻囲を受けた細川幽斎の「田辺籠城戦」(1600年)、刀と槍で熊本鎮台に討ち入った「神風連の乱」(1876年)での伝承がいくつか書物の中に残されている。
明徳の乱では、山名方の武将小林上野介(上野守)が洛西の内野において、周防・長門の守護大内義弘に討ち取られた。2人は馬から降り、大内義弘は長刀、小林上野介は太刀で戦っている。
小林上野介の太刀は、「大乗院寺社雑事記」の延徳4年(1492年)の条に出ている。「能『小林』の周辺」という論文(村田勇司、「学芸国語国文学」25、平成5年)所収の一節は以下のようになっている。
大内義弘の長刀は、小林上野介を討ち取ったことから、「小林長刀」と名付けられ、大内家の家宝となったようだ。17世紀中ごろに成立した軍記物語「陰徳記」には次のように書かれていた。
「大内氏実録」(近藤清石、明治18年)には、大内氏滅亡後は、厳島神社に納められたと伝えている。
田辺籠城戦においては、小林勘右衛門が籠城衆の一人として加わっており、細川幽斎から「御腰物」を拝領したことが、細川家の家史「綿考輯録」(1782年)に記録されている。
「御腰物」が太刀なのか、脇差なのか、大刀なのかはわからない。
サムライの時代が去った明治に入って熊本で起きた神風連の乱に参加した小林恒太郎は、鎮台襲撃後、再挙を期すが果たせず、自宅に戻り、割腹する。この時、刃こぼれした「伝家の宝刀」を示している。
この「伝家の宝刀」が、田辺籠城でいただいた幽斎の「御腰物」だったかは不明。「血史熊本敬神党」(小早川秀雄)は、明治43年発行で、乱の記憶も残っているころの著作である。
カタナではないが、小林恒太郎の木刀について、「神風連血涙史」(石原醜男、昭和10年)に写真が掲載されていた。
最後に、カタナを振るう男たちの陰で、刃に命を縮める女たちの姿があった。小林恒太郎の妻マシ子は当時19歳。あまりにも若かったため、自決前の恒太郎が離縁を勧めたが頑として首を縦に振らなかった。その後の過酷な運命に、後年、刃の上に自ら伏して命を絶つことになってしまった。