【明治】乱後3日目の小林恒太郎

  神風連の乱は明治9年(1876年)10月24日に起きた。熊本敬神党の170人が熊本鎮台に切り込んだ事件である。熊本城の北約8.5キロにある杵築神社(熊本市北区鐙田)には3日後、小林恒太郎が立ち寄った記録が残っている。

[googlemap lat=”32.87829″ lng=”130.68464″ align=”right” width=”300px” height=”300px” zoom=”12″ type=”G_NORMAL_MAP”]杵築神社[/googlemap] 「植木町史」(植木町史編纂委員会、1981年)によると、杵築神社は、敬神党の尊信する神社の一つで、鎮台制圧に失敗した乱の参加者数人が訪れている。最初に訪れたのは愛敬正元で、25日夜半になって、神社の祠掌を務める坂本応気宅に姿を見せた。

  血の付いた衣服を替え、酒食のもてなしを受けた愛敬は26日夜に、同盟を結んだ秋月で再挙を図るため出て行った。

  愛敬と入れ替わるように同日夜には、阿部景器、石原運四郎がやってきた。小林恒太郎は、その数時間後の翌27日午前2時ごろに、鬼丸競、浦楯記、野口満雄とともにきた。

  6人はこの地で自刃することを望んだが、愛敬が同じように自刃しようとした際、神慮を確かめた結果、「再挙」と出ていたため、坂本祠掌は今度も思いとどまるように説得。再度、神慮を伺ったところ、再び、「自宅に帰って方策を」という“お告げ”だった。6人はこれに従う。恒太郎は鬼丸、野口を伴い、自宅に戻って、そこで自刃する。

  町史には、坂本祠掌の曾孫にあたる人(大正6年生まれ)から、「神風連の落ち武者が8名ぐらい立ちよられた」時のことについて坂本家に残る伝承を紹介している。

  それによると、ひそかに近所の人に衣類を借り、血みどろになった装束を着替えさせ、2階の「かくれ間」において酒肴でもてなしたという。血みどろの装束は昭和に入っても保管されていたようで、「終戦の際に焼却した」と語っている。

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