安部龍太郎氏の作品に時代小説「関ヶ原連判状」がある。丹後・田辺城に籠城した細川幽斎が、実は“天下三分の計”を描いていたというストーリーであるが、細川妙庵(幸隆)に仕えていた小林勘右衛門も、チラリと登場させていただいている。
関ヶ原の戦いの際、大坂方の一万五千の兵に囲まれた田辺城の細川方は約五百。だが、容易には落ちず、ついに幽斎が歌道の奥義を極めた古今伝授の伝承者であったことから、朝廷が和議の勅使をたててようやく開城した。
西軍の一万を超える大軍を五百の兵で拘束して、天下分け目の合戦に参加させなかった功績があったとされる。
「関ヶ原連判状」の、小林勘右衛門が登場するくだりを次のようになっている。
辰の刻(午前八時)過ぎ、敵は合図の太鼓を打ち鳴らし、ほら貝を勇ましく吹き立てて三方からいっせいに攻めかかった。
西の搦手口では、小野木勢が竹束を押し立てて高野川をわたり、川浪因幡守の鉄砲隊が激しく鉄砲を撃ちかけてきた。
外濠の際に小野木家の中黒山道の幟と。川浪因幡守の赤の吹流しの旗差し物が充満したが、細川勢は濠の橋を落とし、大草櫓や多門櫓から鉄砲を撃ちかけて防戦した。
東の也足櫓には小出大和守、杉原伯耆守らの軍勢が攻めかかってきたが、ここも松山権兵衛、小林勘右衛門ら名うての戦上手が指揮をとり、也足櫓の大筒と鉄砲、弓を駆使して迎え撃った。
大手口には小野木縫殿助の一隊と、前田茂勝、別所豊後守、谷出羽守らの軍勢が攻め寄せてきた。
この時の戦の様子を「綿考輯録」では次のように記述している。
廿五日、敵東西より一度に貝を吹立、巳の刻搦手の町口外輪まで、鬨を揚、大勢攻きたり候、味方も士三十人計出、鉄炮打あひ、防く処に、幽斎君より御使として石寺甚助・藤木猪右衛門を被遣、急き引候て、銘々持口をよく守り候へと被仰渡に付て、其儘引取、各持口をかため居候に、敵橋を渡り、本町筋を大勢鬨の声を揚、通り候て、搦手の堀際まて小野木縫殿介昇参り候、然とも、其堀の橋兼て引置候ニ付、堀際につかへ、扣居る、其上の大草櫓と申ハ松山権兵衛預りの矢倉也、其時妙庵主より小林勘右衛門を以、北村甚太郎に被仰下候は、急き大草櫓へ参り、権兵衛一所にて敵を打のけ候へとの事ニ付、則勘右衛門同道にて参り、堀際にささへ居候敵七八人、権兵衛・甚太郎打倒し候ニ付、残る敵ともこらへかね、敗軍いたし候、
勘右衛門は、出家して愛宕山福寿院にいた細川妙庵に児小姓として仕え始めた。その後、妙庵が還俗するのに従って、籠城にも加わった。
幽斎と妙庵のそば近くに控えていたと思われる。使い番として、北村甚太郎のもとに妙庵の指示を伝えているのが、この場面だ。
手薄とみられた大草櫓(「関ヶ原連判状」では也足櫓)への応援を促し、そこでの戦闘にも参加したようだ。
ただし、「関ヶ原連判状」で書かれたような、「名うての戦上手」だったかどうかまでは、史料が残っていない。
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