神南山合戦の事
(略)
山名右衛門佐は、小林民部丞、舎弟もろともに高山出羽守が跡にひかへて戦ひけるを、討たせじと取って返し、大勢の中に懸け入って、火を散らして戦ひける程に、佐々木佐土入道が若党、薦田弾正左衛門尉は馳せ寄つて、右衛門佐亮の内甲へ太刀の鉾を入るるとぞ見えし。左の眼を小耳の根へ切り付けられて、目暮れ肝消しけれども、太刀を取って直し、薦田がよだれ懸の透間へぞ入れられける太刀に急所を指し落されて、薦田はその侭討たれにけり。右衛門佐は太刀を倒に杖いて、ちと心地を取り直さんとせられけるところに、雨の降る如くに射る矢、内甲・両眼の間を後の幌付きの本へ、矢さき白ぞ射たりける。この外馬のひ腹・草脇に五筋まで立ちければ、小膝を折って同と臥す。ふせば馬より下りて立つて、今は遁れぬところなりとて、腹切らんとし玉ひけるを、川村弾正馳せ寄つて、己が馬に乗せ奉り、我が身は徒にて、追つて懸かる敵に返し合はせて、切死にこそ死にけれ。右衛門佐は乗り替への馬に乗つて、ちと人心地は付きたれども、流るる血目に入りて、東西も更に見えざりければ、「馬廻りに誰かある、御方の兵数輩討たれね。我何の面あつてか、引きて命を助かるべき。この馬の口を敵の方へ引きむけよ。馳せ入って、川村の死骸の上にて打死せん」と宣ひけるを、飯沼弾正、「こなたこそ敵のある方にて候へ」とて、馬の口を下り頭に引き向けて、自ず轡に付きて小砂交りの小篠原を三町ばかり馳せ落して、御方の勢にぞ馳せ付きける。(小学館日本古典文学全集「太平記④」 77頁)
(略)
(同書掲載の現代語訳)
山名右衛門佐は、小林民部丞とその弟とともに高山出羽守の後ろに位置して戦っているのを討たせまいとして、また戦場にとって返し、大軍の敵の中に駆け入って、刃を交えて激しく戦っていたが、そのうちに佐々木佐渡判官入道の若党の薦田弾正左衛門尉が山名に馳せ寄って、その兜の内にまで太刀の切っ先を入れたと見えた。左の目から耳の付け根にかけて斬りつけられて、目はくらみ動転したけれども、右衛門佐は太刀を取り直した。薦田は喉にかけた防御板の隙間に入れられた太刀に急所を突かれて、そのまま薦田は右衛門佐に討たれたのであった。右衛門佐は太刀を逆さまについて杖にして、少し気持ちを落ち着かせようとなさったところ、雨の降るように射る矢が額と両眼の間を、兜の後ろの母衣付けの鐶のもとに矢先が白く出るほど射抜いたのだった。このほか乗馬の脇腹や胸元には、五本まで矢が立ったので、馬は膝を折ってどっと倒れた。倒れると馬から下り立って、もう逃げられないところだと思い、右衛門佐が腹を切ろうとなさったのを、川村弾正が馳せ寄って、自分の馬にお乗せし、自らは徒歩となって、追ってきて斬りかかる敵と振り返っては戦って、斬り死にしたのであった。右衛門佐は乗り換えの馬に乗って、少し人心地はついたけれども、流れる血が目に入って、東も西も少しもわからなかったので、「馬廻りの者は誰かいるか、味方も兵は多く討たれた。私はどの面下げて、逃げて命を助かることができようぞ。この馬の鼻先を敵の方へ向けよ、駆け入って、川村の死骸の上で討死しよう」とおっしゃったのを、飯沼弾正が、「こちらが敵のいる方角でございます」と、馬の鼻先を後ろ向きにして、自分が轡を取って小砂混じりの笹原を三町ほど駆け下りて、味方の軍勢に合流した。
(高山出羽守の注釈)
桓武平氏秩父氏族の武士。上野国緑野郡高山(群馬県藤岡市)に起こり、小林氏とともに高山党を構成した。山名氏に臣従した者もいる。