【史料】「太平記」巻第二十五 小林大炊亮

 山名時氏住吉合戦の事

 (前略)御方の兵多く落ちける中に、小林大炊亮、山名三川守の討たれたる事をば知らず、落ち行く勢を遮らんと、天神の森まで引きたりけるが、三河守の乗り玉ひたる栗毛馬、平頸二太刀斬られて放れたりけるを見て、「さては三川殿討たれ玉ひにけり。落ちては誰がために命を惜しむべき」とて、ただ一人天神松原より引き返し、敵の方へ箭二筋三筋射懸けつつ、追腹切って失せにけり。「ありがたかりし行跡かな。危ふきを見てだにも命を至すは少なきに、適遁れたる命を、後の名を惜しんで命を棄てければ、類少なき勇志かな」と讃めぬ物こそなかりける。その外の兵どもは、親討たるけれども子は知らず、主討死すれども郎従は助けず、物具を棄て弓を杖に突き、夜中に京へ逃げ上る。見苦しかりし有様なり。(小学館日本古典文学全集「太平記③」 227頁)

 (同書掲載の現代語訳)
 味方の武士が大勢逃げた中で、小林大炊亮は山名三河守が討たれたことをば知らず、退却していく軍勢をとどめようとして天神の森まで後退したのであったが、そこで三河守が乗っていらした栗毛の馬が平首を二か所切られて、乗り手を失っていたのを見て、「すると、三河守殿は討たれなされたのだな。逃げ延びたとて、誰のために命を惜しむ必要があろうか」と、たった一人で天神松原から引き返し、敵の方へ矢を二本三本と射かけながらも、主人の後を追って腹を切って果てたのであった。「めったにない見事なふるまいだなあ。危険にさらされるのを見ていても、命を投げ出す者は少ないのに、運よく死を免れた命を、後世の名誉を重んじて命を棄てたのだから、類少ない勇士であるなあ」と、彼の死を褒めない者はいなかった。そのほかの武士たちは、親が討たれても子はかまわずに逃げ、主人が討死しても家来はこれを救うことをせず、鎧兜を捨て、弓を杖に使って、夜中に京へ逃げ帰った。見るに堪えない有様であった。

 (以下、岩波書店日本古典文学大系「太平記」の同一個所を参照する)
 播磨国住人小松原刑部左衛門ハ、主ノ三河守討レタル事ヲモ不知、天神ノ松原マデ落延タリケルガ、三川守ノ乗給ヒタリケル馬ノ平頸、二太刀切レテ放レタリケルヲ見テ、「サテハ三川守殿ハ討レ給ヒケリ。落テハ誰ガ為ニ命ヲ可惜」トテ、只一騎天神ノ松原ヨリ引返シ、向フ敵ニ矢二筋射懸テ、腹掻切テ死ニケリ。其外ノ兵共、親討レ共子ハ不知、主討死スレ共郎従是ヲ不助、物具ヲ脱ギ棄弓ヲ杖ニ突テ、夜中ニ京ヘ逃上ル。見苦シカリシ分野也。(岩波書店日本古典文学大系「太平記②」468頁)

 (小学館日本古典文学全集における小林大炊亮の注釈)
 小林大炊亮 山名氏の臣の小林一門。→229頁注13
 (229頁の注13) 上野国緑野郡小林(藤岡市小林)出身の山名氏の重臣。巻二十一に小林民部丞、「明徳記上」に小林上野守義繁。

 (岩波書店日本古典文学大系での小松原刑部左衛門の注釈)
 播磨国小松原庄から起こる。釜・今・毛「小林左京亮」、参考本に天「小林大炊亮」。小松原は天正本の異本によれば山名三河守兼義と討死したことになっていると注する。
 (釜・今・毛は、校訂・注釈の際に参考にした諸本の略号で、釜田本、今川家本、毛利家本の略)
 

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