【戦国】米子に砦を築いた日野山名氏・山名宗幸

 伯耆の米子(鳥取県米子市)に、日野山名氏が進出していた時期があったようだ。「伯耆米子城」(立花書院、佐々木譲著)という本に書いていある。応仁文明の乱(1467~1474)の際、山名氏が守護を務めた伯耆は、隣国・出雲守護代の尼子清定と抗争していた。伯耆・出雲の境には、いくつも城砦がつくられた。

 「伯耆米子城」には、以下のように記載している。(16頁)

西伯耆でも法勝寺・天満・橋本・戸上・尾高などの各地に陣地が増設、あるいは補強された。その中でも米子城は最前線であり、また最重要地でもあった。米子の飯山(いいのやま)に砦を築いたのは、伯耆の山名勢をひきいていた山名の一族山名宗幸で、彼は日野山名氏の頭領でもあった。

 「国人領主・日野山名氏」の項で書いたが、日野山名氏は、山名義幸が伯耆・日野郡に土着し、国人化したと伝えられる。生山城(亀井山城)に拠って、最後は山名藤幸の代に、毛利氏に滅ぼされた。

 「伯耆米子城」所収の山名系図によると、山名時氏の嫡男・師義の子が義幸である。義幸は長男だったが、病弱で、家督は師義の死後、時義に渡る。日野山名氏は、義幸から師幸、持幸、宗幸とそれぞれ子に引き継がれていく。

 同書には、宗幸の子・是幸までしか出てこないが、最後の当主だった藤幸も「幸」の字を使っており、日野山名氏が義幸以来、「幸」を通字としていることが推測される。

 ところで、小林党とのかかわりだが、明徳の乱で、小林上野介(上野守)をはじめ、小林党は多くが討たれた。わずかに残った一族が、以前からかかわりが強かった師義系の日野山名氏のもとに身を寄せた可能性が考えられる。

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【戦国】米子に砦を築いた日野山名氏・山名宗幸 への5件のフィードバック

  1. kobakoba のコメント:

    やはり小林といえばと山名ですね。
    私は山名時氏配下の小林民部こと重長が築いたと伝わる山城、作州清水城趾がある村にゆかりの者です。
    なぜか新田の流れと伝えられておりますが、重長と関係があるとの説もあり、どうなのだろうかと気になってネットで調べておりましたらこのサイトを見つけました。
    山名家は新田家の一門・・・ということでは微妙に繋がらないでもないのですが。
    しかしあまり話題にのぼらない「小林氏」をここまで調べておられる方がいることを知り感動致しました。
    これからもご活躍を期待しております。

  2. 小林 のコメント:

    初めまして、小林と言います。ご先祖様の事を調べています。パソコンで色々と検索をかけていたところ、こちらの小林党が目にとまり拝見させて頂きました所、小林左京亮国範と言う人物に目がとまり,この方ともう一人、小林民部丞重長の二方を調べたいのですがどなたか詳しい方いらっしゃいませんか。ちなみに、家の先祖は、小林太良太夫、天文十丑年と、五輪塔に刻されています。
    小林党のホームページを立ち上げておられる方、私事で申し訳ございません。この場お借りしました事をお許し下さいませ。

    • kbayashi10 のコメント:

       投稿ありがとうございました。小林左京亮、民部丞は、太平記に登場する一方で、山名時氏のもとで、丹波の守護代などとして在職徴証が残っています。佐藤進一著「室町幕府守護制度の研究(下)」(東京大学出版会)に出ていました。
       もとより勉強不足ですので、私も詳しい方を探しています。教えを乞いたいですね。

    • 小林 のコメント:

      鳥取県岩美郡岩常に耳塚という石碑があります 山名氏清、民部烝重長にしたがい神南合戦で戦死した多数の死者を供養するために建てられた石碑です 江戸後期に再建され、再建者は当村住人、小林次郎右衛門と石碑に名があります。この次郎右衛門は小林民部烝重長の末孫と伝えられています。

  3. 小林 のコメント:

     康安二年(正平十七年)(一三六二)六月、山名時氏は山陰地方から、播磨・但馬地方にかけて拡大をはかった。

     但馬から播磨にかけては、時氏の子山名左衛門佐師義と、山名家の重臣であった小林民部丞重長が侍大将として軍を進めたが、播磨の国の大山(兵庫県神崎郡カ)で赤松掃部助直頼に行方をはばまれたため、丹波経由で京都へ向かおうとして和久郷に陣を取り、丹波の守護仁木義尹とにらみあった。

     急を聞いた幕府方は仁木氏救援の軍勢を丹波に送ったため、両者の間に大きな兵力の差ができ、その上、山名方小林軍は兵糧が欠乏したため次第に勢力が弱まっていった。

     七月になると「山名伊豆守時氏が勢の丹波の和久に居たりしも、因幡の国へぞ引返しける」と「太平記」(巻第三八)は述べている。

     このことに関して「丹波志」は「この戦いに際して、仁木義尹は堀村の荒神山に屋敷を構え、荒木山の上には城を構えていた。小林民部丞重長は氷上郡から搦手に廻り、余田の上、高山に登り谷を隔てて攻撃を加えた。一方、山名師義は和久郷に陣を取った。しかし大きな合戦に及ぶことはなく山名軍は兵糧尽きて伯耆に退却した」と述べている。

     又、「丹波志」の「陵墓部」には「荒木の風呂の谷という所に、仁木の墓として一間四面の石垣、高さ二尺、中に菩提樹を植えたり其の脇に松二本有り、仁木兵部太夫義尹の墓と云い伝う」とあり、仁木義尹にまつわる伝承が生まれている。

     以上みてきたように、和久城一帯は南北朝時代においては丹波の重要な場所であった。

     南北朝時代のはじめのころには南朝の拠点となり、その中ごろからは、南朝側に味方した山名軍の力が大きく加わってきたとところといえるであろう。

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