【史料】「太平記」巻第三十二 神南山合戦の事①

神南山合戦の事

 (略)
 二陳(にじん)の峯をば、細川右馬頭(うまのかみ)頼之・同じき式部太夫繁氏を大将にて、阿波・讃岐・備前・備中・備後の兵どもが三千余騎にて堅めたりけるが、ここは殊更山険しければ、敵南よりはよも揚げじと思ひけるところに、山名伊豆守を先として、小林民部丞・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後・因幡の兵ども五千余騎、さしもの険しき山路を磐折(つづらお)りにぞ上りたりける。この陳は前の険しきを頼んで、鹿垣(ししがき)を一重をも結わざりければ、両方時の声を合はせて、矢一つ射違ふる程こそありけれ、やがて打物に成って火を散らす。まず一番に敵に合ひける細川式部太夫の兵、四国勢の中に、豊嶋三郎・秋間兵庫助兄弟三人・生夷(いくいな)四郎佐衛門尉(さえもんのじょう)一族十二人、手の定(じょう)戦って、一足も引かず討死す。これを見て坂東・坂西・藤家・橘家の者ども、少しあぐんで見えけるを、備前国住人薄三郎佐衛門尉父子兄弟六人入り替って戦ひけるが、次(つづ)く御方(みかた)なければ、これも一所にて討たれにけり。

  その後この陳色めきて、兵しどろに見えけるを、小林得たり賢しと、勝に乗って短兵急に拉(とりひし)がんと、揉みに揉んで責め上りける間、四国・中国の勢三千余騎、山より北へ捲(ま)くり落され、遥かに深き谷底へ頽雪(なだれ)を突いてぞ落ち重なりける。二陳の敵破れて御方の進み勇める気色を見て、一陳の寄手(よせて)などかは気に乗らざらん。大将山名右衛門佐・舎弟五郎義理(よしただ)真前(まっさき)に進み玉へば、相順(あいしたが)ふ兵ども誰かは少しも擬議すべき、我先(われさき)に敵に合はんと諍(あらそ)ひ進まぬ者なし。

(小学館日本古典文学全集「太平記④」68頁)

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