【史料】「太平記」巻三十二 あらすじ

あらすじ

 文和3年(1354)12月13日に、山名時氏、師義父子は上洛のため伯耆国を五千余騎で出立し、途中、越中の桃井直常、越前の斯波高経も加わる旨の知らせが届いた。

 将軍は24日に、天皇を奉じて近江国武佐寺へ退去。翌年正月16日には、足利直冬を大将に、桃井、斯波軍が三千余騎で入洛。

 文和4年(1355)2月4日、足利尊氏は三万余騎で東坂本に着陣し、義詮は摂津国神南(こうない)の峰に陣を構えた。対する宮方の直冬は、東寺に本陣を置き、直冬、桃井、斯波の六千余騎、淀川沿いに山名時氏・師義の五千余騎、男山の麓に吉野の官軍三千余騎が陣を張った。

 神南山の将軍方は、第一陣が西の尾根に赤松・佐々木の二千余騎、第二陣が南の尾根に細川頼之・繁氏の四国勢一千余騎、北の峰には第三陣として義詮を大将とし、佐々木道誉、赤松則祐ら重臣が三千余騎を率いていた。

 宮方の山名師義・義理兄弟の三千余騎は、第一陣目がけて駆け上がり、佐々木勢を襲った。時氏と和田・楠らの五千余騎は南側から登り、第二陣と白兵戦を展開し、四国勢を山から追い落とした。(※小林民部丞が時氏の勢に加わっている)

 第三陣も師義らの六千余騎に追い詰められたが、老将の則祐・道誉が大音声で叱咤激励し、劣勢を挽回した。山名勢の本陣への退却を聞いた尊氏は、比叡山から下りて、東山に陣を構えた。

 2月15日の朝、東山に陣取る将軍方の軍勢の動きを見て、東寺を本陣とする宮方から、桃井直信・直常、斯波氏頼が進発した。夕には仁木義長・土岐頼泰の三千余騎が桃井、赤松らの二千余騎と開戦。

 3月12日は、将軍方の七千余騎が集結、七条西洞院に出撃した。この日は、斯波高経と畠山義深が戦った。数日間、数百回に及ぶ合戦の中、将軍方が日を追って勢いを増したのに対して、宮方は兵糧運送の道を閉ざされ、3月13日の夜半、直冬は諸将とともに東寺から退去した。

(小学館日本古典文学全集「太平記④」55頁)

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