伯耆山名家の攻勢・大永3年(1523年)
カクテコノ次ニ平賀・天野以下攻亡サントシ給トコロニ、山名ノ一族、伯耆ノ国境ヘ打テ出タリ、ト注進有ケル上ニ、大内義興防長豊筑ノ勢ヲ引テ、蔵田カ後詰ノ為ニ上ラルル由聞有ケレバ、経久、大内ト対陣セバ何勝負有ト云コトヲ知間敷、然バ其隙ニ我国ヲ山名ニ切リ取ラルベシ、先ニ山名ヲ退治シテ後コソ大内ト合戦ヲモ致サメトテ、同(大永三年)七月五日西条表ヲ引払、出雲ヘコソ打入給ヒケレ。 (マツノ書店発行「陰徳記」上・86頁)