【戦国】高山右近と大分

 キリシタン大名の高山右近は、一説では上野の高山党の流れとも伝えられる。その子孫は、現在も石川と大分に残っている。高山党は、平良文より続く秩父氏の流れ。上野国緑野郡の高山御厨に勢力を張った武士団で、小林氏は高山氏から出ているとする説も有力だ。

 戦国時代の摂津高槻城主の高山右近は、日本史の中でも有名な武将。キリシタン追放令でも棄教せず、最後はマニラへ追放され、異郷の地で最期を迎えた。

 大分の高山氏は、右近の二男、亮之進(助之進)が豊後の大友義統を頼ったとされる。長崎のキリシタン研究家の片岡弥吉教授が昭和12年に、大分市長を務めたこともある高山英明氏の系図と高山南坊(右近)の碑文を刻んだ塔を発見した。この塔は現在、「舞子浜霊苑」に残されている。

 高山右近の先祖については、甲賀五十三家の一つに数えられる家だったとするものもある。

 ただし、吉川英治著「高山右近」では、甲賀出身であり、しかも高山党の流れを引くとして設定になっていることを、余談ながら付記しておく。太平記にも名の残る武将の裔とした部分で、これは、新田十六騎の一人、高山遠江守のことであろう。

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