【戦国】細川家臣の小林家初代は、田辺城籠城衆

 肥後細川藩士としての小林家の初代は、小林家の「先祖附」によると、小林勘右衛門という。関ヶ原の戦い(一六〇〇年)の際、西軍の軍勢に囲まれた細川幽斎 の丹後・田辺城に籠城した一人と伝えている。幽斎が万が一、討ち死にすれば、幽斎が伝える古今伝授の断絶を恐れた後陽成帝による勅使で、和議・開城となっ た逸話でも有名な籠城だ。

 「先祖附」は、各藩士に家系を提出させたもの。熊本県立図書館蔵の先祖附によると、明治維新時の藩士だった小林恒太郎の初代に関して、次の記録が残っている。

初代、小林勘右衛門儀、丹波国の者にて御座候。
三斎様、丹後国御在城の節、妙庵様、愛宕に御登山遊ばされ候みぎり、 御児小姓として召し出され、数年相勤め候ところ、関ヶ原御陣に付き、 妙庵様、丹後国田辺の御城へお越し成られ候とき、勘右衛門儀御供仕り、 田辺御籠城の節も、御用を仰せ付けられ候旨、承伝申し候。
さそうらいて、豊前国にて、三斎様より御知行百五十石を拝領し、 御奉公相勤め候。
寛永七年病死仕り候。

 文中、三斎様は細川忠興、妙庵様は忠興の弟の幸隆。

初代、小林勘右衛門は、丹波の国出身。
細川忠興公が丹後の国に在城されていた時のこと。弟の幸隆公は、愛宕(京都の愛宕山)におられ、小林勘右衛門は、その時に小姓として召し出された。
数年、勤めたところで、関ヶ原の合戦に至った。幸隆公は丹後国の田辺城に籠もることになったが、勘右衛門もお供し、田辺籠城戦でも御用を仰せ付けられたと伝えられる。
その後、国替えになった豊前国において、忠興公から、知行として一五〇石を拝領し、ご奉公した。
寛永七年(一六三〇年)に病死した。

 藩の公式の記録ともいえる「綿考輯録」巻五に、勘右衛門の出自は記載されている。

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