山名氏清ら山名一族が足利義満に背いた「明徳の乱」(1391年)で、周防国守護大名の大内義弘と一騎打ちの末、討ち取られた小林上野介(上野守)にちなむ長刀(なぎなた)が大内家に残されていた。中国地方の戦国時代を描いた戦記物語「陰徳記」に書かれている。
「陰徳記」巻第七「大内先祖ノ事」の一節に、大内義弘の戦功として、小林上野介義繁を討ったことを紹介した上で、「小林長刀が大内家にある」としている。
この時の戦闘場面は、乱の直後に書かれた軍記物語「明徳記」に詳述されている。
大将の義弘以下、大内軍の五百騎が下馬して山名軍の突撃を待ち構える中、小林が率いる山名軍騎兵は射たてられて、刀剣による下馬戦闘を強いられてしまう。
一騎打ちの場面では、小林が「鍔本(つばもと)まで血に染めたる太刀」で大内に打ちかかれば、大内は「長刀を茎(くき)短かに取り直して」迎え撃ったとされる。最後は、内甲(うちかぶと)と足を切られて小林は命を落としている。
陰徳記に見られる「小林長刀」は、大内義弘が明徳の乱で小林義繁を討ち取った際に手にしていた長刀だったのだろう。
小林上野介は、精強な山名軍の中でも名の知られた勇将だったらしく、明徳記の中では「中国にては勇士の聞こえある『鬼ここめ』」と呼ばれている。
緒戦で山名方の猛攻をしのぎ、大将の義弘自らが敵の勇士を一騎打ちで仕留めたことは、比較的戦意の乏しかった幕府軍の中で際立った活躍だったとされる。
実際に、この戦闘後、大内義弘は小林義繁に腕を2か所切られた姿のままで足利義満の本陣に出向き、居並ぶ諸将の前で自らの奮戦ぶりを誇り、援軍を要請。
ただし、度が過ぎたようで、「自分が討ち死にしてしまったら大変なことになる。義弘ほどの勇士はいないであろうから」と言い放ち、諸将の反感を買ってしまう。大内義弘自身が後に反乱を起こし、誅せられることになる「応永の乱」(1399年)の伏線にもなるような一場面である。
少々、話が逸れたが、大内義弘にとって明徳の乱での活躍は、軍の統率者としても、また、一人の武将としても面目躍如の働きになった。そうした武勲のシンボルとして、「小林長刀」が大内家に伝えられたとの推測ができる。
大内家は戦国時代に入ると、重臣陶隆房の下克上により衰退し、やがて滅亡する。「小林長刀」も歴史の舞台に姿を表すことはなかった。