【室町】コシャマインの戦い

 中世における最大のアイヌ民族の蜂起と言われる「コシャマインの戦い」は1456年(康正2年)、応仁の乱(1467年)の10年前に、北海道南部で起きた。函館に近い「志濃里(しのり)」の鍛冶職人がアイヌの若者を刺殺したことをきっかけに、道南部のアイヌ民族が一斉に蜂起した。最初の攻撃目標となった「志濃里」を治めていたのは上野国出身の小林氏。上野国緑野郡の小林氏の一族だった可能性もある。

 1456年夏、志濃里(現・函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人の鍛冶職人が、出来上がったマキリ(小刀)の良し悪しや値段を巡って、客のアイヌ民族の青年と争いになり、マキリで青年を刺し殺してしまう。

 松前藩の史書「新羅之記録」には、こう記録されている。

これに依りて、夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より大永五年春にいたるまで、東西数十日程に住する所の村々里々を破り、者某(シャモ)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起こるなり

 1525年(大永5年)まで、争乱は間断的に70年間も繰り広げられたという。中でも最大は、東部アイヌ民族の首長コシャマインに率いられたアイヌ軍が、志濃里館(しのりだて)をはじめとして、和人が立てこもる砦ともいえる「館」を次々に攻め落とした1457年(長禄元年)に起きた戦いだった。

 志濃里館の館主は小林良景(よしかげ)で、1457年5月14日、アイヌ軍に大軍に攻められ、戦死している。コシャマインの軍により、陥落した和人の館は、志濃里、箱館、中野、脇本、穏内、大館、禰保田、原口、比石。残ったのは、わずかに茂別、花沢の2館だった。

 「アイヌ民族の歴史」(榎森進著、草風館)によると、志濃里館主の小林氏について、「上野国の御家人であった小林氏から分かれて北条氏の被官として津軽方面に来住した小林氏の末裔である」と紹介。入間田宣夫氏の見解を引用するなどして、当時の奥羽地方と蝦夷間の人間の動向や交流、交易関係を描き出している。

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