【室町】上野介の憂鬱

 明徳の乱(1391年)の緒戦で討ち死にしてしまう小林上野介(上野守)は、幕府軍が陣取る内野に攻め込む前に、桂川で味方であるはずの丹波勢と戦っている。明徳の乱で起きる数多くの誤算の中で、最たるものだったと思う。「明徳記」でも触れられていないので推測となるが、上野介は丹波勢を吸収して決戦場に向かうはずだったのではないか。だが、実際に目に飛び込んできたのは、幕府の陣営に投降する久下、中沢の軍勢の姿だった。この時点で、上野介には勝機が見出せなくなったに違いない。

 大内義弘の陣に、山名高義とともに「今日の軍の先がけにて、討死する」と宣言して攻め入った。文字通り死中に活を求めるしかなかったのだ。

 上野介は、山名氏清が本陣を構えた八幡(石清水八幡)にいたが、本隊と別れ、西国勢を率いる山名満幸が陣取る峰の堂に向かっている。

 ところが、峯の堂の西国勢は進軍を始めており、上野介が上梅津の瀬に来たときには、桂川を渡河し、京に入る久下、中沢の三十騎を発見。不審な動きを見せたため、多数で取り囲んで問いただしたところ、中沢、久下の二騎は返事をせずに逃走。他の者は逃げ切れず、すべて討ち取った。

 そもそも、上野介はなぜ、峯の堂に向かったのか。説明はない。

 氏清は丹波、和泉、山城の守護である。丹波は、父の時氏から受け継いだ山名一族の世襲所領に近い分国である。和泉は、紀伊で起きた南朝軍の反攻を鎮圧するために氏清個人に任された分国という位置づけができる。山城も氏清個人に一時的に預けられたものだ。

 明徳の乱では、丹後を本国とする満幸が自分の分国の丹後・出雲に加え、氏清の分国・丹波の軍勢を合わせて「西国勢」として率いたようだ。

 こうした客観情勢を考えると、満幸の統率力を危惧した氏清が、上野介に命じて、丹波勢の掌握を図った蓋然性は高い。

 実際に、丹波守護代は時氏の守護時代から、小林一族の者が務めていたことが記録に残されている。小林左京亮、小林民部丞、小林左近将監の名が残っている。

 小林氏は、山名氏の苗字の地・上野国の山名郷に近い、緑野郡小林から出て、山名氏に随身して西遷、南北朝時代、各所で山名家の重臣として活躍。「太平記」にも随所に登場する。

 別働隊として、丹波勢を掌握させるには最適の人選といえる。

 また、「明徳記」では八幡の陣中で、上野介が氏清に対して、挙兵の無謀さを諌めるシーンが出てくる。やや芝居がかった場面ではあるが、事実だと仮定すると、戦略なき挙兵を腹に据えかねて、憤りをぶつけたのかもしれない。

 戦術的には、丹波勢の直率による戦力増強に賭けたが、丹波の有力な武士である久下・中沢の投降を目の当たりにして、その期待も潰えた。

 「今日の軍の先がけにて、討死する」。掛け値なしの言葉だった。

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