「陰徳記」は万治3年(1660年)ごろの成立とみられる軍記である。戦国時代から安土桃山時代にいたる西日本を中心にした大内、尼子、毛利、大友氏ら群雄の興亡の歴史を記した。
著者は、岩国・吉川家家臣の香川正矩。毛利家の中国制覇の事跡が多くを占めている。江戸時代の人物である正矩は、文書や記録といった史料を集めたばかりでなく、「古老に尋ね」「諸国へ物聞きを出し」、取材したとされる。正保2年(1645年)ごろから書き始め、亡くなる万治3年(1660年)まで書き綴ったと見られている。付け加えると、正矩の二男景継(梅月宣阿)がさらに「陰徳太平記」を著した。一般には「陰徳太平記」の方が有名だが、毛利氏への賛辞がよりいっそう強くなっている。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・80頁)
サルホドニ尼子伊予守経久己ガ国ニ逃下リ、国中ヲ打随、伯州・石州、備ノ中州・後州モ己ガ手ニ属シ、殊ニ安芸ノ国ハ吉川駿河守(経基)、経久ノ為ニハ舅ナリケル間、彼一族経久ト一味セシカハ、其外ノ国人等多ク尼子家ヘ靡キ随フト聞エシカバ、石州ヲ経テ防州山口ヘ可打入ナト其聞ヘアリケル間、大内義興モ大樹(足利義稙)ノ暇給ハリ、翌レバ永正十六年八月十日(永正十五年八月二日泉州堺発)都ヲ立テ周防ヲサシテ下リケルガ、安芸ノ国ノ侍共、宍戸・平賀・毛利・吉川・天野已下ノ人々モ皆本国ヘ馳下リ、或ハ大内ニ属スル者アリ、又ハ尼子ニ一味スル兵モ多カリケリ。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・86頁)
カクテコノ次ニ平賀・天野以下攻亡サントシ給トコロニ、山名ノ一族、伯耆ノ国境ヘ打テ出タリ、ト注進有ケル上ニ、大内義興防長豊筑ノ勢ヲ引テ、蔵田カ後詰ノ為ニ上ラルル由聞有ケレバ、経久、大内ト対陣セバ何勝負有ト云コトヲ知間敷、然バ其隙ニ我国ヲ山名ニ切リ取ラルベシ、先ニ山名ヲ退治シテ後コソ大内ト合戦ヲモ致サメトテ、同(大永三年)七月五日西条表ヲ引払、出雲ヘコソ打入給ヒケレ。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・94頁)
(尼子)経久ハ当正月中旬(大永四年)ヨリ伯耆ノ国ヘ発向シ、山名ト数カ度合戦ニ及ケルカ、与土井(淀江)・天満・不動ケ嶽・尾高・羽元石(羽衣石)・泉山以下数ケ所ノ城郭ヲ責落シケル間、山名入道国ニ堪エズ、因幡ヲサシテ逃入、其後肥後ノ宇土ノ屋形ヲ頼リ、九国ニ下リケルト聞エシ。南条豊後守宗勝・小鴨掃部助・小森和泉守・山田(高直)・行松(入道正盛カ)・福頼以下悉ク国ヲ去テ、因幡・但馬ヘ引退、山名但馬守豊員ヲ頼居タリケリ。カク伯耆ニ於テ合戦仕乱タル半バ也ケレバ、彼国ヲヒタスラ打捨ンモ如何ナリトテ、少芸陽出張ノ義、延引セラレケリ。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・118頁)
大内左京兆モ尼子予州モ、如何様ニモ有無ノ一戦ヲ遂ハヤト、互ニ進マレケレドモ、時節ヲ窺ケル間一日々々ト延引シテ五十余ヶ日ヲ経タル処ニ、伯耆ノ国ヘ山名但馬守出張ノ由告来リケレバ、常久、是ハ由々敷大事ナリ。南条・小鴨・行松等此費ニ乗テ本国ニ入ナバ又切返サン事可難。急馳向テ退治セン、トテ即義興ヘ使ヲ以、御辺我等対陣ノコト我日ノ本ニ隠有間布候間、諸人ノ耳目ヲ驚ス如クナル防戦ヲ遂申サントコソ存候処ニ、互ノ所存齟齬セシメ候哉、徒ニ数月ヲ送リ候。某ハ伯州口ヨリ因幡・但馬ヘ発向仕ルベシト存、当陣ヨリ引払候、ト伝送リ、頓テ開陣也。カカリシカハ石州半国過テ尽ク大内ノ幕下ニ属シテケリ。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・124頁)
従四位上左京権太夫義弘、防長豊石紀泉六州太守タリ。此人ノ戦功明徳記ニ載タリ。小林ヲ討給ニ依小林長刀トテ大内家ニ于今有ケルトカヤ。応永六年十二月廿一日於泉州境被誅給、香積寺殿梅窓道実。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・183頁)
晴久我芸陽出張ノ透間ヲ伺、山名但馬守伯耆ヘ発向セハ、南条・行松等本領ヘ帰リ可入。其押ニトテ吉田筑後守・舎弟左京亮二千余騎差添テ、伯耆ニコソハ残シ置レケレ。
(マツノ書店発行「陰徳記」上・197頁)
爰(ココ)ニ牛尾遠江守カ同朋ニ琢阿弥ト云大力ノ強ノ者有、遠江守カ未弥次郎ト云ケル時ヨリ戦毎ニ身ヲ離レス付随ヒ、経久伯州ニ於テ山名ト合戦ノ時山口弥二郎ヲ馬上ヨリ切テ落シ、其後南条カ郎等一条弾正ヲ組打ニシテヨリ已来、敵ヲ打コト三十余人ナリケレハ。経久モ我前ニ召出、諸人ニ勝タリ、ト宣テ感シ給コト数ヶ度ナリケルカ、今度ハ赤穴辺ヨリ風気煩ヒ。前後不覚ナリケレハ湯原カ最後ノ合戦ニ供セサリケリ。弥次郎討レケルト聞ヨリ涙ヲ波羅々々ト流テ、扨(サテ)ハ弥次郎殿打レ給タルニヤ、吾供奉シ申ナハ角ハ討レ給マシキニ、病ノ床ニ伏ケル故主ノ先途ヲ見届不申コトノ恨メシサヨ、主君遠州宣ヒシハ、弥次郎初合戦ノ時ヨリ已来伯耆ノ国ニ於テ、山名ノ弱敵ニ逢テ小勢ヲ以テ大勢ニ勝タリケルコト数ヶ度ナル故ニ、戦毎ニ我剛強ヲ頼ミ、敵ヲ侮リ深入シテ危キ働ヲ成ノミナリ。強将下ニ弱兵ナシト云へは、元就ノ兵ハ足軽等ニ至迄至強ナルヘシ。相構テ伯耆・因幡・美作辺ノ敵ト一般ノ看ヲ成スコトナカレ。