細川幽斎公没後三百年祭が行われた明治43年(1910年)10月の「九州日日新聞」には、祭典に関する記事が連日掲載された。熊本市黒髪(当時・黒髪村)の細川家御祠堂で執り行われた祭典は、この年の4月に開かれた市民挙げての「三百年祭」とは趣を異にし、細川侯爵家の「私祭」的要素が強かったようだ。(記事表示)

 「九州日日新聞」の10月2日付け紙面には、三百年祭の参列者について説明が出ている。旧家臣の内、参列を許されたのは、細川氏の旧領・京都の青龍寺城時代の臣下と、関ヶ原の戦いにおける丹後・田辺城の籠城衆のそれぞれ子孫たち。幽斎公との縁が格別に深い者たちの末裔であることからだという。2010年11月7日に執り行われた四百年祭でも、前例にならい、青龍寺以来と田辺籠城衆の子孫たちが招かれた。

 少し長くなるが、当時の記事は「旧功臣の子孫を召す」との見出しをつけて、以下のように説明している。(句読点を追加)

 「来る六日、幽斎公三百年祭を、細川侯爵家において御執行につき、公の青龍寺在封時代の臣下たりし者の子孫、及び、田辺籠城時代の臣下たりし者の子孫に限り、御祭典に参列を差し許さることとなりたるが、幽斎公の臣下として報効に務めたるものは、独り、この両時代の人々に限らず。然るに、今日の御祭典においては、特にこの両時代の臣下の子孫のみに限られたるは、一は創業の初め、公に従って股肱を致し、一は籠城の際、公と死生を同じふせし者にて、その縁故、ともに格別深厚なるを忍ばれて、斯くは取り計らはれたる者の由にて、両時代における臣下の姓名、及びその子孫の現存せるは左の如くにして、頃日、細川家家扶浅井栄煕氏より、左の書状を以て右の子孫の人々に通知したりと云ふ」

 これに続けて、「青龍寺時代人名」「田辺籠城人名」に分けて戦国と明治の両時代の60人の家臣と子孫の名が列挙されている。

 子孫に送られた通知状も出ている。

 「来る十月六日、藤孝朝臣三百年御忌祭執行相成り候については、貴下の御祖先何某君の深き御縁故あることを(田辺籠城の功労を)思し召され、右御祭典に参列差し許され候條、同日午前八時、龍田御祠堂へ御出頭、これ有りたく、この段、●貴意候也」

 また、10月6日の記事は、細川家と家臣による「内輪」の集まりであることが述べられている。

 「細川侯爵家執行の龍田祠堂における藤孝公三百年祭は、二日、及び三日の本紙上に詳報せし通りの順序により、本日午前九時より、開催さるるはずなるが、右につき、県下の顕官等をいっさい案内せざる理由につき、浅井家扶の語るところによれば、今回の祭典はまったく細川家の私祭なれば、公人としての諸大官等を招待するは、かえって礼を欠くの感あるがため、特に案内状は差出さざりしものなるが、厚意により参拝さるる人があれば、侯爵家においては歓んで祭場に曳くの準備はなしおれりと」

 田辺籠城衆の中には、細川妙庵公に仕えていた小林勘右衛門の名もあり、三百年祭には当時、子孫の小林ナツが幼少ながら小林家戸主として参列した記録が、上記「九州日日新聞」明治43年10月2日付け紙面と、細川家の家政所の記録に残っている。

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 2010年は細川幽斎没後四百年にあたる。熊本市では幽斎公四百年祭が開かれ、戦国時代の文武を代表した武将の顕彰が行われる。100年前の明治43年(1910年)にも三百年祭が開かれていた。熊本で当時、発行されていた九州日日新聞は「三百年祭彙報」というコーナーを設けて、連日、報じていた。(記事表示)

 同紙によると、三百年祭の会期は明治43年4月16日から15日間。熊本市の出水神社での大祭をはじめ、騎射、犬追物、花火、宝物展覧会などが行われた。

 4月5日付の紙面には名誉顧問の記事が載っている。(句読点を追加して記載。以下同様)

 「三百年祭名誉顧問として、清浦子爵を推すこととなり、同会より、推薦状を発送したり」

 熊本出身で、後に首相も務めた清浦圭吾のことである。

 紙面では準備段階から詳細な報道を続けており、同日付けには、祭式事務委員会の決定による神官の服装まで掲載。

 「大祭当日は約二十名の祭員奉仕すべく、熊本市及飽託郡の各神職に依頼する筈。神官の服装は斎主及副斎主は正服加勤、神職は斎服を着用することとなり」

 16、23、24、28、30日には、打ち上げ花火や仕掛け花火があり、多くの露店が道を埋めたという。

 初日のにぎわいは4月17日付けの紙面で次のように書いてあった。

 「幽斎公三百年祭第一日、大祭は昨十六日午前十一時、市外、出水神社に於て挙行されたるが、朝来、押し寄する参詣人は、二、三日来、乾き切りたる道に土埃を立て、踵を継ぎ往き交う。軽便は溢るる計かりの客を運び、花曇りの空は一騎春めき渡たり…」

 4月24日付けでは、細川家の動向を紹介。

 「護立男爵日程 侯爵代理として下県中の細川護立男は昨日午前十時、出水神社大祭に参列。それより熊本市の招待にて江津湖に船をうかべ、中の島にて(2字不明)あり。午後六時ふたたび出水神社に引返し、仕掛花火の観覧あり。本日午前十時出水神社大祭参列。午後、能楽観覧の上、武徳会支部大会に趣き、同五時、偕行社に於ける歓迎会に臨場。明二十五日は出水神社に於て犬追物観覧。二十六日は武徳殿に於ける熊本藩諸流武術観覧の後、出水神社に於て流鏑馬式に臨場の筈なり」

 九州日日新聞の記事からわかるように、三百年祭は熊本を挙げてのイベントだったようだ。

 この三百年祭には、幽斎ゆかりの家臣らの子孫も招かれたという。青龍寺城時代から幽斎につき従ってきた者や、田辺城に籠城した者の子孫である。小林勘右衛門も田辺城に籠城した者の1人である。

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 神風連の乱を起こした熊本敬神党の者たちを、事件直後に熊本県庁から内務省に送られた報告では、「神癖家」と呼称していた。「神風連」という名自体も、そもそも神がかり的な敬神党の一党の異質さを指して、熊本の士族たちが付けた通称だ。「神癖家」の言葉には、より強い揶揄が込められているように感じる。(記事表示)

 「事変最初ノ報告文写」という史料がある。昭和9年に中央公論社から出版された「神風連(下巻)」に添付された「熊本県庁文書綴込」の中に紹介されていた。

昨廿四日午後十一時頃、県下士族の内、神癖家と唱し候者百数十名、暴挙に及び、鎮台兵営及び県令その他各所へ放火。種田少将初め武官並びに令参事兵員等に至るまで、暗撃をうける者数十名に及び申し候。(以下略)

 宛先は「正院ト内務省」で、報告者は「熊本県七等仕出 桑原戎平」となっている。

 「神癖家」とは、一般に馴染みのない言葉だが、「蘭癖家」が蘭学、あるいはオランダによって持ち込まれる舶来の事物について執着する人たちのことを指していることを思えば、その方向性はわかるような気がする。

 神道に偏した人たち、という意味になると思うが、「理解不能」というメッセージが強く込められていることはよくわかる。

 文明開化の気分が横溢する官吏にとって、神に祈って成否・吉兆を問う「うけい(誓約)」によって行動を決める熊本敬神党を理解することは困難であった。

 保守的で、しかも反動的ですらあった、敬神党以外の熊本士族にとっても、理解不能であったことは同じだっただろう。

 ただし、彼らが付けた「神風連」という呼称の方は、後の時代に再評価された際に再浮上した。「神癖家」は、そうした時代の思惑に“利用”される余地はなかった。熊本敬神党を理解する、という意味では、「神癖家」の方が正しく彼らを表現していたのかもしれない。第三者には、100%理解不能ということを正直に表しているからだ。

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 小林恒太郎、鬼丸競、野口満雄の3人は、再挙の企てを断念し、恒太郎宅で割腹して果てた。明治9年10月28日のことである。役所に自決を届け出て、検視を終えた小林家では、再び、マシ子の行く末のことが話題にのぼった。(記事表示)

 マシ子は、鎮台襲撃の日の朝に夫から挙兵を告げられた。10月24日のことである。

 それからは、19歳の妻にとって嵐のような5日間だった。出陣の準備をして夫を送り出し、乱後、官憲の捜索を受けるが、家人とともに知らぬ存ぜぬを通した。夫の不利益にならないように心配りするのは、武家の嫁として役目だったからだ。

 恒太郎は戻ってきて最期の別れができたが、離縁して再縁するように勧められる。マシ子が強く拒み、何とか恒太郎を納得させることができたのだが…。

 ところが、恒太郎の遺骸を囲んだ通夜の席で、集まった親族らの間からこの話題が再燃する。結婚わずか6か月での夫の死。しかも、まだ19歳である。子もいない。

 この席で口には出すものはいなかっただろうが、乱を起こした熊本敬神党は、いたって評判が悪い。神意を第一とする行動原理は、保守的な細川家中の大多数の武士たちからも“変わり者”扱いを受けていた。

 実際、恒太郎の父親の死後、何かと面倒を見てくれた西村仙也という伯父がいる。西村はもともと敬神党の精神的指導者である林桜園の門人だった。恒太郎が敬神党とのつながりを深めていくと、「林先生へは、おれが連れ出しているのではない。恒太郎が熱心に参るのである」と、周りに弁解をしていた、と「神風連血涙史」(石原醜男著)に紹介されている。家中で色眼鏡で見られていたというエピソードの一つである。

 親族が集まると、そうした奇矯な者の遺族、さらに加えて、反乱を起こした“賊の遺族”というレッテルを、嫁入り間もない婦人に押し付けるのは不憫だという声が出ても不思議ではない。

 だが、ここでもマシ子は強硬に抵抗した。通夜の席を外すと、独り別室で髪を根元から切って、一堂の前にあらわれ、意志表示としたという。

 通夜の席も水を打ったように静まり返った。「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)ではこの時の様子を、「母をはじめ、座にありし人々、いずれも涙に面をおおわぬはなかりき」と記している。

 恒太郎の家族はその後、賊の遺族としてに細々と暮らしていたようだ。家は妹のアサ子が婿をとって継いだ。幸い、西南戦争の混乱も何とか乗り越えて熊本の地を離れることもなく、落ち着いた生活を送っていたようだ。そこには家族の一員としてのマシ子の姿もあった。

 だが、このままでは終わらなかった。明治政府に仕える、マシ子の兄・鎌田景弼が熊本から家族を挙げて東京に移り住むことになった時、マシ子の離縁問題がまた持ち上がった。3度目になる今回は、マシ子には知らせずに事が進められた。

 一時的な里帰りのつもりで、マシ子は兄のいる東京に向かった。ところが、東京滞在中に離縁の申し込みが小林家になされ、受け入れられた。

 これから以降は少々長いが、「血史熊本敬神党」の文章を引用する。

その後、マシ子は、鎌田氏の佐賀県令たりし時、ある人に再嫁し、二、三人の子供までも出来たるが、その夫の素行乱れしかば、マシ子はやむなく里方に帰り来たり。

一日小林家の川尻町にあるを訪ひて、深く自己の過ちを謝し、「わらわがあまりに不甲斐なかりしため、貞節をまっとうするあたわずして、再嫁することとなり。今日不幸の身となれるは、畢竟、神罰なり」と。

涙を流して懺悔し、数日間滞留して帰りしが、かくて神経を痛め、自ら刃に伏して死したり、といふ。

 また、「神風連血涙史」では、小林家に逗留し、ツタ子もアサ子もマシ子の苦労を慰め、この時はマシ子もうれし涙を流したという。その後も時々訪ねて来て、手紙のやり取りも続いた。

 だが、その最期は、「女心の終に思いあまってか、不眠症を発し、憂愁に日をおくる中、一夜、人知れず自ら刃に伏したといふ」と書かれている。

 彼女の不幸は時代に翻弄されたからだ、と言うのは、今ならばたやすい。だが、当時はどうだったか。何よりも悲しいのは、マシ子自身が、自分が悪い、とだれよりも思い込んでいたことなのではないだろうか。

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 小林恒太郎の結婚相手探しは難渋した。母親が縁談を持ってきても恒太郎は頑として応じなかったらしい。ツタ子はついに、「自分が女親なれば軽侮して、かく、わがままを言うことなるべし」と怒る。母の意に従って妻を迎えることになるが、それがマシ子である。神風連の乱が起きる半年前の明治9年(1876年)3月のことだ。(記事表示)

 「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)では、この背景について、「明日なき身と覚悟せる小林には、いかに心苦しき結婚なりしならん」と記す。挙兵に向かって突き進んでいた時期であり、結婚をためらったのも無理はない、と同情している。

 マシ子に対する申し訳なさを含んだ思いは、挙兵後の行動にも表れている。

 10月24日に熊本鎮台襲撃に参加した恒太郎は、27日夜になり、自宅に戻ってくる。同盟した秋月や萩の動向を探り、再挙を図るが、警戒が厳しくて無理だとわかると、28日には自決を決める。

 母に先立つ不孝を詫び、姉、妹に暇乞いをすると、19歳の妻を別室に伴った。そこで、自分の死後は離婚して再縁を求めるように頼み込んだ。

 そもそも結婚自体が間違いだった、と臍を噛んだのではなかろうか。別室での夫婦の別れについて、「血史熊本敬神党」は書いている。

 小林は、この年若き婦人を生涯、寡婦たらしむることの無惨なるを想い、しきりに離別再縁の事を勧めしも、マシ子は断として肯んぜず。「わらわは不肖なれども、願わくは良人のために貞節を全うして、永く母上へ孝養を尽くしたし」と請いて、(小林の願いを)聴かざれば、小林は如何ともするあたわず、そのままになしおきたり――。

 同書によれば、恒太郎はこのとき27歳。母の剣幕に押されて結婚を決め、若妻の抗議の真剣さに面食らい、離縁の申し出を引っ込めている。迷い、そして惑う姿は、良くも悪くも人間らしい。

 恒太郎の人生は、自らが望んだであろう、武士らしい割腹で幕を閉じたが、残された人たちの物語は、まだ続く。

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 神風連の乱は、明治9年(1876年)10月24日に起きた。小林恒太郎の妻・マシ子はこの年の3月に19歳で嫁いできたばかり。わずか半年余りの結婚生活だった。 (記事表示)

 「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)によると、恒太郎は10月24日の朝、船場町にあった自宅で、妻マシ子、母ツタ子、妹アサ子を前にして挙兵のことを告げる。

 「今夜いよいよ鎮台に討ち入りて、平素の志を為さん」と言う夫の“出陣”の準備に、この日は追われた。

 母のツタ子は気丈に、「汝の武運を祈るぞよ」と送り出したものの、銃砲の音が夜の熊本の町を震わし、女3人、不安の夜を過ごした。

 25日朝になると、戦闘の噂が飛び交う中、大木淑慎が訪ねてきて、北岡にある細川邸で、恒太郎の元気な姿を見たことを知らせてくれている。

 この日の夜には、やはり乱に参加し、負傷した庄野景治が「休ませてくれ」と訪れ、26日夜まで小林家に潜伏。その後、甲佐方面に落ちていった。

 27日になり、ようやく鎮台兵や警官が家捜しに来た。恒太郎と日ごろ、付き合いのあった者たちを問いただした。マシ子は「嫁いで来たばかりだから」と逃れ、妹のアサ子が答えたが、いずれも鎮台襲撃の際に戦死した人たちの名前しか明かさなかった。

 恒太郎が家を出て行ってから、マシ子とアサ子は朝夕、冷水を浴びて武運を神に祈っていた。

 27日深夜になり、恒太郎は、鬼丸競野口満雄を連れて突然帰ってきた。

 「アサ、アサ」。恒太郎の密やかな呼び声に気づいた妹は、走り出て表口を開けようとしたが、「裏口を開けてくれ」と言う。

 マシ子が急いで奥座敷の雨戸を開けると、月明かりの中、庭の梅の木の下に恒太郎ら3人が立っていた。

 アサ子は後々まで、この時の様子を知人らに語っている。

 「冬枯れの梅樹の下に、月光を浴びて立ち居る光景。何とも言えぬほど凄絶のさま、今もなお、目に映じて忘れがたし」と。

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 明治9年、政府の洋化政策に反発して熊本鎮台を襲った「神風連の乱」を起こした熊本敬神党の中で、小林恒太郎は計画から挙兵まで、枢機に参与する参謀の一人に数えられるが、“外様”的な存在であった。 (記事表示)

 「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著、三〇頁)では、「この枢機に参与し、終始画策したる者は富永守国、福岡応彦、吉田(古田)十郎、石原運四郎、緒方小太郎、阿部景器、小林恒太郎をして、富永は実にその参謀長たりしなり」としている。

 この中にあって、古田十郎と小林恒太郎は「春日寺塾派」という色分けがされている。富永守国や福岡応彦ら、いわゆる本流の引く者たちは違う目で見られる傾向があったし、行動にも表れていた。

 春日寺塾は、河上彦斎が熊本城下に手取塾とともに創設。手取塾が軽輩の者が中心だったのに対し、春日寺塾は士分の子弟が入っていた。

 古田、小林のほか、春日寺塾からは、田代儀太郎、深水栄季らがいた。河上彦斎の思惑としては、手取塾は敬神党直営の私塾として同志育成を図り、春日寺塾の方は直系の色彩を薄め、藩の保守派であった「学校党」や旧藩士が属した地域集団である「郷党」との橋渡しを期待したものがあったと推測される。

 実際に挙兵に際し、古田、小林は旧藩士による郷党との連携に奔走。植野常備、南誠哉、米良亀雄ら“客将”の乱への参加を実現させた。

 また、春日寺塾には、学校党の青年将校的な存在であった佐々友房も学んでいた。当初は敬神党と交流していたが、後にその思想性に嫌気が差して離れていった人物ではある。神風連の乱では、逆に学校党の人間が巻き込まれないように獅子奮迅の活躍さえ見せている。

 河上彦斎自身は、明治4年に斬罪に処せられるが、それまでにも、ひそかに挙兵の企てたようだ。明治3年秋にも挙兵計画があり、小林恒太郎の名前も出てくるという。

 渡辺京二氏は、こうしたことから、両塾は熊本城下の青年層を吸収し、軍事的動員力を備えたものを想定してつくられたと考え、敬神党の党派形成の完成も、両塾の形成が大きく関与していることを指摘されている。(「神風連とその時代」第3章熊本敬神党

 ただし、冒頭に“外様的”存在と表現したように、富永ら敬神党直系と呼ばれる人たちと、春日寺塾で学んだ古田、小林らや、彼らに誘われて参加した郷党グループでは、行動にも違いが出てくる。

 鎮台襲撃後、ようやく銃砲による鎮台兵の反撃が組織的に始まり、敗北が決定的になると、戦死した首領の太田黒伴雄の遺言通り、そのまま全員討ち死にを主張する直系党員らに対し、小林らは「犬死だ」と拒み、再挙に賭ける方向に大勢を導くことになる。

 だが、再挙は夢と消え、結局、多くの者がその後、なすすべもなく自決してしまうことになる。

 “狂信的”と周りから見られがちな一党だが、当然のことながら、そんなに単純なカテゴリーでくくれるものではない。複雑な背景を抱えた人たちの集まりである以上、様々な場面でその素顔が垣間見える。特に、太田黒の戦死後、その傾向は顕著になる。挙兵以来、「シニックで人を刺すおもむきがある」と、渡辺氏に指摘(「神風連とその時代」神風連伝説)された小林恒太郎の言動も、そうした神風連の乱の一鏡面を見せてくれる。

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神風連の乱における小林恒太郎の言動 (2009.02.21)

 肥後熊本の地で明治維新を迎えた小林恒太郎は、明治9年に起きた神風連の乱に加わり、こと敗れた後、割腹する。乱を取り上げた書の中には、小林恒太郎の言葉が記録されている。(記事表示)

 10月24日深夜、熊本城内にあった鎮台の砲兵営、歩兵営を襲撃することから始まった神風連の乱は、両営を大混乱に陥れるも、銃撃による反撃が始まると、もはや刀槍だけで太刀打ちできず、数時間の戦闘で敗れてしまう。首領の太田黒伴雄も胸に銃弾を受け、城内法華坂まで退いたところで、義弟大野昇雄の介錯を受けた。

 法華坂に退却してきた小林恒太郎は、太田黒の戦死を知り、今回の挙兵が成らなかったことを悟ったが、平然として「斯くなるも御神慮なり」と語ったと伝えられる。

 このエピソードを載せた「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)では、小林恒太郎の態度を、「その運命に安んじて惑わざりし態度は、まことに壮烈なる者ありしと云ふ」と記している。

 戦闘に破れた一党は、城内にあった藤崎宮に集まり、進退を協議するが、太田黒、加屋霽堅、斎藤求三郎ら首脳陣を失っており、すでに退勢は挽回できない状況に陥っていた。

 さらに藤崎宮で、旧藩士の大勢力である「学校党」からの接触を受け、学校党の応援を誤解し、彼らが集結していた北岡の旧藩主細川邸に移動。だが、結局。「大義名分のない戦はできぬ」と学校党側から応援を拒否されてしまう。

 引き返して再討ち入りか、いったん逃れて再挙をはかるか――。ここでも議論が始まり、まとまらない。「血史熊本敬神党」によると、小林恒太郎は「先に法華坂より藤崎に退きしさえ、臆病神にとりつかれしためなるに、再び返り戦わんとするなど思いもよらず。ただこの上は、人々その進退を自由にするほかはあらず」と冷然と言い、再討ち入り説に同意しなかった。

 この場面は、「神風連血涙史」(石原醜男著)には古田十郎、田代儀太郎らが再討ち入りを強く主張したのに対して、小林恒太郎は「いや、ここまで諸郷党に引きずられてきたのが、すでにわが党の臆病神に、取り憑かれた証拠である。今更引き返して。敵城に打ち入ろうなど思いもよらぬ。むしろ夜の明けざるうち、島原に押し渡り、萩・秋月等の同盟としめし合い、再挙を謀るが一番よい」と反対し、これが趨勢を決めた。

 一行はこの後、船を求めて、熊本の水運の玄関口である高橋に向かった。船を得られたもの、時悪く、干潮で出航できず、金峰山に登り、山頂で再度、軍議開くが、最後は軍神弓矢八幡を奉安し、神籤をさぐって神慮をうかがった結果、「斬入り」という結果が出た。

 鬼丸競はわが意を得たり、とばかりに、「ただ潔く敵営に切入って神慮の旨に従うばかりだ」と気負い立つ。この時は小林恒太郎も、「ナニ『切入り』との御示しはやがて死ねとの御神慮と伺ふがよい。ああただ潔く死のう」と賛同したと「神風連血涙史」には書かれている。

 金峰山に登った一同47人は、最後の戦いに奮い立ち、17,8歳の若者は、将来ある身と、下山させた上で、再び城下に向かおうとしたが、すでに警戒が厳しく、再討ち入りを断念、それぞれ散っていった。

 小林恒太郎の最期は、「血史熊本敬神党」に詳しい。小林宅において、鬼丸競、野口満雄とともに自刃した。

 そこでは、母ツタ子にのこぎりの歯のようになった刀を見せて、「かくなるまで働きたり」と述べたほか、義理の兄の坂本茂に頼み、同盟を結んだ秋月、萩方面の情勢を探ってもらうが、再挙の見込みがないことを納得すると、母には、先立つ不幸を詫び、「ことここに至りては、割腹の外なき」と申し述べ、また、この年の3月に嫁いできたばかりの妻・マシ子には、19歳の若さで生涯寡婦となることを哀れみ、自分との離別再縁を求めた。

 これに対する女たちの答えは、母は「なに、相済まぬことのあるべき。安心して快く死すべし」と気丈に励まし、妻は「わらわは不肖なれども、願わくば、良人のために貞節を全うして、永く母上へ孝養を尽くしたし」と頑なに夫の申し出を拒んだという。

 渡辺京二氏は、その著「神風連の時代」所収の「神風連伝説」の中で、小林恒太郎の言動に興味を持ち、以下のように書いている。

 「小林は元来、春日寺塾系のリーダーとして、古田十郎の豪傑肌に対し、温厚の君子といわれているが、挙兵以来の言動はシニックで人を刺すおもむきあり、一党に対し、醒めた意識のもとにある種の批判の念を禁じえなかったらしい」としている。

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 「改正禄高等調」という明治初期の公文書の写しがある。小林恒太郎に関する記述は、二項目ある。 (記事表示)

 一つは、明治7年(1874年)2月の記事――。

元高擬作百五十石。改正高二十八石七斗 小林恒太郎 (従前五等官非役)
右の通り相違なく候。以上 第一大区七小区五十六番屋敷
 明治七年二月 士族 小林恒太郎 (印)

 廃藩置県から始まり、幕藩体制解体の総仕上げとして秩禄処分に至る過程での小林家の禄高が記録されている。

  問題は、この次の明治9年の記事だ。

明治九年十月二十八日、暴動に加わり、自刃。
養子小林仁九郎 三十二年四ヶ月
白川県権令 安岡亮介殿
明治十一年二月十九日 願いの通り、聞き届け候

  小林恒太郎の自決の届け出と、養子による小林家の継承の願い出の記録のようだ。

 白川県は、熊本県の前身の一つ。安岡県令は、神風連の乱で襲撃され、3日後に死去している。養子縁組を聞き届けたのも、乱後、1年以上経った明治11年2月であったことは、神風連の乱の翌年には、熊本を焼け野原にした西南の役が起きていることを考えれば、当時の熊本の混乱ぶりがうかがえる。

 ここで、小林恒太郎の養子として登場する「仁九郎」は、小林家の位牌では、「二九平」となっている。 恒太郎には、姉と妹がおり、姉は神風連の乱当時、すでに嫁いでおり、家には妹のアサがいた。恒太郎の妻、マシ子は嫁いできたばかりで子はなく、恒太郎自刃後、急きょ、アサの夫に迎えられ、婿養子に入ったのが仁九郎だ。

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 小林恒太郎は、神風連の乱では、首領・太田黒伴雄以下、主力70人とともに、熊本城内の砲兵営(砲兵第6連隊・現合同庁舎のあたり)に斬り込んだ。鎮台襲撃後は、金峰山に登り、再挙を期すものの果たせず、自宅に戻り、鬼丸競野口満男とともに自刃する。 (記事表示)

 恒太郎には妻がいた。マシ子という。乱の半年前の明治9年3月に結婚。マシ子は19歳。恒太郎自刃後、小林家ではマシ子をそのまま寡婦にするに忍びなく、なんとか、実家に帰そうとしたものの、マシ子自身が承知せず、そのまま、小林家に残った。

 しかし、その後、実家の鎌田家が家を挙げて東京に移る際に、強いて同行させられた。マシ子の兄が、初代の佐賀県令(明治16年~21年)の鎌田景弼で、鎌田が佐賀県令時代に、ある人と再婚して子どももできたものの、夫の素行が悪く、再び、鎌田の実家に戻ったという。

 これらのことは、明治43年に出された小早川秀雄著「血史熊本敬神党」石原醜男著「神風連血涙史」に詳述されている。

 マシ子はその後、小林の家を訪ね、「貞操を全うする能はずして、再嫁する事となり、今日不幸の身となれるは、畢竟神罰なり」と涙を流した。数日の滞在の後、実家に帰ったが、最期は「神経を痛め、自ら刃の上に伏して死したりと云ふ」と両書は伝えている。

 小林の家に現在まで伝わる話では、「恒太郎の幼い妻は、家に帰した」というところまでで止まっている。 「大義」の名のもとに、死ぬもの、殺されるもの、残されるもの――と、悲劇は連鎖の波紋を広げるようだ。

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 神風連の乱に参加した小林恒太郎の妻・マシ子の事跡に関連して、「血史熊本敬神党」(小早川秀雄著)には、もう一つ、気になる部分がある。 (記事表示)

 序文に、「敬神党の事は、大野、加屋二氏を地下に起こして自ら説明せしめても、能く当世の人をして了解せしむるを得べきや否や、疑はしきことの極みなり」と書いた三山野人は、池辺吉太郎のことだ。神風連の乱の翌年に起きた西南の役で、熊本隊を率いて西郷軍に身を投じた学校党の首領・池辺吉十郎の長男である。

 吉太郎は、吉十郎が処刑された後、マシ子の兄、鎌田景弼を頼っており、その支援で上京し、学問を積んでいる。さらに、鎌田が県令時代の佐賀県で学務課に奉職したこともあった。

 もしかしたら、この時、鎌田の妹のマシ子のこと、神風連の乱のことも知ったのではないか、とそんな想像もできる「人と人のつながり」だ。

 ちなみに、池辺三山はその後、明治30年代には、朝日新聞の主筆となり、対露関係では強硬派の論調を張った。序文でも、敬神党について、「総てこれらの人々を如何にかして日露戦役の時まで存命せしめて、満洲の野に踊り出でしめたら如何なりしぞなど、何人も思ふことなるべし」と結んでいる。

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 敬神党(=神風連)の遺族についても、歴史は若干の記録をとどけてめている。明治27年9月21日の読売新聞には、「召集令待てずに、自害はかる。神風連の遺児で某師団曹長、志果たし渡韓師団に」とのタイトルで、当時としては長文の記事が掲載された。(記事表示)

 以下、要点のみ抜粋した。

 東京府下、某師団の「何某曹長」という匿名の記事。曹長の父親は、鎮台司令官の種田少将を襲撃した1人でした。記事の年の8月に勃発した日清戦争に出征したい気がはやるものの、師団への進発令が下らず、ついに思い余って自害を図り、周りのものに止められた、という内容だ。

 「(乱の当時)曹長其頃は年未少かりしも、我父の無名の兵を起し、皇国の敵となり、あたら名将を手にかけて無残の最期を遂げしめたことを思ひ、如何にもして亡父の汚名を清めて地下の魂を慰めんと深く感ずることありて、遂に兵籍に身を置き、一旦、国家の変あらば、真先に討死し…」と思い詰めていたことが背景にあるという。

 記事をしめくくるのは、次の一句。「其志を憐み、或る将校の周旋にて、先頃、進発せし某師団に編入して、渡韓せしむることとなりければ、歓喜措く所を知らず。曹長、万歳の声に送られて行く出陣の姿ぞ勇ましき」とあった。曹長がその後、どうなったかは、出てこない。

 渡辺京二氏は、著書「神風連とその時代」に、「蜂起のあと」という章を書いている。その中で、明治29年に出された木村弦雄著の「血史」「ほとんど世間の注目を集めなかった。時流はまだ、神風連の復権を求めていなかった」とある。その後、「(石原醜男氏の)『(神風連)血涙史』が現れ、荒木精之氏によって『遺文集』が編まれ、櫻山同志会が思想団体として機関紙『櫻山』をもつに至って、神風連復権のサイクルは完成した。神風連はまさに天皇制国家の思想的正統として位置づけられたのである」と指摘しておられる。

 これに続くセンテンスで渡辺氏は「だがこのとき、神風連の異端としての本質はじつは死んだ」と指摘している。深くうなづける説だと思われる。周辺にいくにしたがって、時代を経るにしたがって、神風連の行動を理解するチャンネルを、人は失うだ。神風連の内部でもそうだ。櫻園直系の人々と、たとえば、小林恒太郎や古田十郎のような春日寺塾派、あるいは、高麗門連をはじめとする郷党の人々との間には、やはりそれぞれの思いのグラデーションは微妙にあったようだ。。残された家族についても、それは当てはまる。

 異端、もしくは異質なものに対して、理解はできないけれども、ありのままにその存在を認めるといったことを、明治以降の人々は下手になったのかもしれない。

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 熊本で起きた士族の反乱・神風連の乱は、熊本鎮台を刀と槍だけで襲い、1日で潰えた。
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