「血史熊本敬神党」は明治43年(1910年)の刊行。著者の小早川秀雄。神風連を総合的に捕らえた書物は、明治29年(1896年)に出された木村弦雄の「血史」が最も早いが、「血史」は、社会の注目を集めるには至らなかった。神風連がようやく世の注目を引くことになったのは、小早川の「血史熊本敬神党」による。
 ただし、そもそも小早川は、熊本国権党の論客で佐々友房の直系である。神風連の乱では、佐々は「学校党」が巻き込まれるのを防ぐことに全力を挙げたことで有名だ。その流れを汲む小早川が、神風連の顕彰を行うことに違和感が感じられる。
 この本が出版された明治43年という時代と関連があり、日露戦争後、国民の心に生じた空白感を埋める役を担わされたという見方もある。神風連の研究は、遺族的感傷による顕彰と、国粋主義精神の象徴という2つの底流を持ちながら理解されていく。

【小林恒太郎の出陣と小林及び鬼丸競、野口満雄との割腹】

「血史熊本敬神党」204頁

 小林家に於ける鬼丸競(きそう)、小林恒太郎(つねたろう)、野口満雄三人の、壮烈なる割腹を叙するに当り、先ず小林恒太郎の平生と、出陣の状況を記すべし。

 小林は当年二十七歳の壮年ながらも、太田黒帷幄の参謀として、終始、機密に参与せし参謀の一人なり。性沈毅にして、しかも、威容あり。武技に長ぜしが、人と交はるには極めて円満にして、毫も圭角を露さず。後進の人、能く之に依服せり。容姿の端麗なる、同志中其右に出づる者なく、大阪陣中に於ける木村重成の風ありと称せらる。

  小林は交を郷党の畏友と絶ち、敬神党に加はりしかば、旧友之を含み、機を見て之を陵辱せんと図れり。小林、之を知り、各郷党の士人、遠乗の際、自ら進んで怨友の間に割って入り、大に其威風を示せしかば、衆遂に之に抗する能はずして止みしと云ふ。

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恒太郎の生い立ち

 恒太郎は通称にして、名は長保(ながやす)、一に玉矛(たまぼこ)と云えり。父、又蔵、西村氏より来り。母、ツタ子は家女なり。恒太郎に二人の姉妹あり。姉は坂本茂に嫁し、妹は此時尚家に在りて未だ嫁せず。

  父、又蔵、郡代に任ぜられ、鶴崎に在りて任処に死せり。小林、時に年僅かに十歳。乃ち家を継ぎ、禄百五十石を食み、番方となりて、京都に祇役したり。伯父、西村仙也は、父の兄なるが、林先生の門に学びて。その高足たり。恒太郎を愛育すること、我子の如く、恒太郎も亦、西村を観ること実父の如くなりき。 年稍長じて、林先生の門に学び、又、井戸千矛の門に入りて、兵法を学び、益々尊皇攘夷の大義を思ひ、而して其所信を堅うしたり。

 たまたま、慶応戊辰、鳥羽伏見の戦あり。時に叔父西村、京都に在りて王事勤む。 小林、年正に十八。国に在り、慨然として歎じて曰く、父上にして在さば、予は伯父君に随ひて、官軍に従はんものをと。西村、後、之を聞いて曰く。彼が父、生存せば、早く京阪の間に伴ひてゆきて、彼の志を成さしめたりしに、父なきこそ残念なれと。以って其志を観るべからずや。

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  維新以来、小林は、友人古田十郎深水栄季(ふかみ・えいき)と謀り、郷党士族の能く為すなきを慨し、之と交はるを屑(いさぎよし)とせず。太田黒、加屋等の人々と結託し、以って為すあらんとし、遂に参謀の一人として挙兵の事に斡旋したり。 挙兵の期切迫するや、小林は同志と共に相携えて鹿島宮(近津)に詣で、戦勝を祈る事、週間の永きに及べり。偶々、小林の母、病床にあり。家を出る時、家人に告げて曰く、予は今より近津に籠る筈なれば、母上の病気、少しにても重らせなば、福岡応彦に告げよ、予は直に帰り来らんと。 既にして母の病気平癒しければ、小林は、今は心に懸(かか)ることもなく、十月の下旬に入る頃より、常に外出のみして、夜も遅く帰り来(きた)り。

 如何にも多忙の様なりしが、二十四日の朝に至り、酒肴を神前に供へ、形の如く拜礼を済し、やがて妻マシ子と妹アサ子とを己が居間に招きて云ふやう、今夜いよいよ、鎮台に打入りて、平素の志を為さん筈なり。夕刻に帰り来れば、何くれと用意し置くべし。また、神前の御供へを取り下げて、料理し置くべしと命じて出で行きたり。 小林はこの日、何くれと、挙兵の準備について奔走し、午後に至り、坂本茂を新屋敷に訪ひしに、小国に赴きたる留守なりしかば、小林は姉なる坂本の妻に向ひて、近辺まで来りたればとて、それとなく暇乞ひし、夕刻に至りて帰り来り。

  この時、妻と妹とは、すべての用意を整へて、待ち居たれば、小林は心地よく夕餐を済まして、自室に入り、二人を相手にして出陣の打扮(いでたち)を済まし、父の形見の絹綿入を内に着込みて、木綿の上張りを着け、袴をはき、蔦くずしの定紋ある羽織を着て立出でんとし、なお二人に向ひ、もし、事長くなりて、他に行く事ありても、いったんは必ず帰り来るべし。しかし、長引く事もあるまじ。砲弾飛び来るごときことあるも、遠きに避くるにも及ばざるべし。後事をよろしく頼むと言い置き、さらに母に向ひて、当夜の事を打ち明けて、暇乞ひす。母は、汝の武運を祈るぞとて、小林の門出を見送り、かくて船場なる自宅を出で行きたり。

 この夜、愛敬宅の本陣に、百七十の同士相集まり、今し出発せんとする時、領袖加屋霽堅(かや・はるかた)は、此は御神酒なり、戴きたまへとても人々の中に勧め回りしが、傍にありし小林恒太郎は、氷のごとき刃を拭ひつつ、独語して曰ふやう。今夜の戦に伍列など行はるる者にあらず。昔、武田、上杉の兵にさえ、弱虫はありたり。たとひ鉄石の同志とはいえ、勇士のみとは限らず、その人々の世話までせよとは、出来べき事ならねば、武勇に長けし同志、互に魁すべきのみとて。颯爽たる威風、辺りを払い、吾こそ抜群の働きせんとの意気込み、雄々しき極みなりしと云ふ。

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  小林家にては、恒太郎の出でゆきし後、いかに成り行く事かと、一同案じ煩らひ居りたりしに、砲声銃声盛んに起こり、火の手、処々に上がりたれば、いたく気遣い居りしに、翌朝となれば、到る所、前夜の戦闘の噂のみにて、何処には兵士の逃げ来たりたり、何処には将校の斬られゐたりなど、如何にも物騒の極みなるより、家族は一層、小林の身の上を気遣い居たるところに、大木淑真(おおき・しゅくしん)尋ね来たり、昨夜、北岡なる細川邸にて、恒太郎君を見受けたり、談話はせざりしかど、無事の体に見受けぬと告げたれば、家族は幾分か安堵はせしものの、尚、その後の消息を審かにせずしてありしに、二十五日の夜、親族なる庄野景治(しょうの・かげはる)来りしが、庄野は眉毛は火に焼け、頸のあたりもいたく腫れ居たり。少しく病煩て、苦しければ休憩させよとて、そのさま平常に異りしを以て、家族は、必定、前夜の事に関係せしに相違なしと察し、細かに問ひ糾せしかば、庄野も初めて事実を明かし、小林は近津に赴き、身体は無事なりと語れり。 かくて、庄野は小林家に潜みて、二十六日の夜に至り、衣服を更めて、甲佐方面に赴きたり。

 その翌二十七日に至り、営兵警官幾多来りて、家捜しせしも、もとより影だに見えざれば、小林の平生交際ある人々の氏名など問ひ糾したるに、妻マシ子は、この年三月に嫁し来りたるなれば、あまり精しく知り居らざるを以て、妹アサ子、これに答へて、営中にて戦死せる人々の氏名のみを挙げたりと云ふ。

 妻と妹とは、小林の家を出でし以来、朝夕冷水を浴びて、小林の武運を神前に祈りいたるが、二十七日夜十二時すぎ、小林は鬼丸、野口の両人と相携へて、突然帰り来り、屋外より家人を呼びたれば、妹は走り行きて表口を開けんとせしに、折から陰暦十一日の月は、皎々(こうこう)として半天に懸かり、四隣、いと物寂しきうちに、三人は静かに庭前なる梅樹の下に、月に照らされて佇み居りたり。

 冬枯れの梅樹の下に、月光を浴びて立ち居たる光景、何とも云へぬ凄絶のさま、今もなお、眼に映じて忘れ難しと、妹は常に人に物語れりと云う。 三人は座敷に通り、小林は母に対し、ただ今帰りたりと挨拶し、それより共に二階の物置の中に入りて、両三日寝ざれば、ゆっくり眠りたし、家中物静かにしてくれよとて、其儘、寝に就き、翌朝七時頃に至りて目を覚ましたり。

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 斯て朝餐を喫し、直に姉婿坂本茂を迎へんとて、丁稚の丈作を走らせたれば、坂本は直に訪ひ来りぬ。 小林は、具に挙兵の仔細を物語り、二十四日以来の顛末を告げ、吾等は、今一度は是非是非、秋月か山口かに赴きて、再挙を計りたければ、世間の形勢を探りていただきたしと依頼しぬ。坂本は快く之を引き受けて、出で行きたるが。

  此時小林は、母に向ひて、佩(は)き居たる伝家の宝刀の鋸の歯の如くなれるを示し、斯くなる迄働きたりと云へば、鬼丸もまた、吾もこの通りなりとて、その刀を抜きしに、これまた歯は鋸の如くなり居り。野口は、余は奮戦中に、本刀折れたれば、この差添を用ひたるに、それすらも斯くなりしと示したりと云ふ。

  坂本茂は、当時、郷党中の先輩たる山崎定平を訪ひ、また、伊藤甚助を訪ひたるに、両人より秋月も山口も形勢不可にして、到底再挙の見込みなしと聞き、且つ同志の某は何処にて自殺せり、某は何処にて捕はれたりなど、聞きしを以って、坂本は午後三時頃、再び小林宅に来りて、その旨を報告せしかば、小林は野口、鬼丸とともに、斯くなる上は、万事休せり、速に死するの外なしとて、ここに潔く割腹するに決したり。

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  小林、鬼丸、野口の三人は、一般の形勢を観て、到底事を為すべからざるを知り、割腹に決せしかば、小林は別れの盃を酌み交すべく、その準備を命じ、下戸なる野口のために、氷砂糖など用意せしめ、家族と共に、一同訣別の宴を催したり。時に十月二十四日午後四時過ぎなりき。小林は久方ぶりに、熱燗にて甘しとて杯を挙げ、鬼丸は左の遺書を認めたり。

内奸臣を誅鋤し、外醜夷を掃攘し、万民塗炭の苦を救はんは、積年の志なり。今戦敗れて、其実効立たざるを恨む。なお同盟の士を募り、再び事を挙げんと欲するも、道に於いて聞けば、事を與にするのは士、あるいは縛に就くと。余等情に忍びず割腹して畢る。
明治九年九月十二日
                 
小林 長保
野口 守光
鬼丸 親臣

 九月十二日とは、同志の常に用い来れる陰暦を執れるなり。野口もまた、筆を取りて、己が姉に送るべき遺書を認め、兄知雄は城中に戦死したれば、継母の世話を依頼し、且つ姉に対して、幼少より鞠育されし鴻恩を謝したり。継母は、元は妾なりしが、その後、本妻に直り、この時は高瀬の自宅に帰りて、別居したり。

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  訣別の宴も済みたれば、三人は同じく湯を以って身体を洗い清め、小林は衣を改め、鬼丸、野口は衣紋を正し、三人相携えて、母を初め一同の前に坐し、小林は母に向ひ、先立つ不幸の罪を詫び、事ここに至りては、割腹の外なきを述べしに、母は、なに、相済まぬ事のあるべき。安心して快く死すべしと慰め、姉妹にも暇乞いを為し、それより妻を別室に伴ひて行きて、己の死後、離婚再縁の事を頼みたり。

  初め小林の母は、小林のために伉儷を求めしも、小林は頑として応ぜず。固く辞したれば、母は怒を含み、自分が女親なれば、軽侮して、斯く吾儘を言う事なるべしと云ひたれば、小林はやむことなくして、母の意に随ひ、妻を迎ふる事となりたり。今日ありて明日なき身と覚悟せる小林には、いかに心苦しき結婚なりしならん。 ここに於いて、鎌田景弼(かまだ・かげすけ)の妹を迎へしが、即ち妻のマシ子にて、同女の嫁ぎ来りしは当年三月、芳紀まさに十九歳なりき。

 小林は、この年若き婦人を生涯寡婦たらしむることの無惨なるを想ひ、しきりに離別再縁の事を勧めしも、マシ子は断として肯んぜず。 妾不肖なれども、願はくは良人のために、貞節を全うして、永く母上へ孝養を尽くしたしと請ひて聴かざれば、小林は如何ともする能ず。そのままになし置きたり。

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 この間、鬼丸は一同に向ひ、この場となりては、何も言い残すべき事なし。唯自分には二人の子あり。これだけは宜しく御頼み申すとて、左の歌を認めて、家に送りくれと依頼したり。

  生みの子あらん限りは皇国(すめくに)のみためになれよ生みの子の末

 野口もまた、小林の姉リツ子=坂本に嫁し、野口の姉の嫁したる処の近隣にあり=に向ひ、御序(おついで)にこの手紙を姉に渡していただきたしとて、さきに認めたる遺書を託し、且つ幼少より撫育されし恩義を幾重にも陳謝したりと伝えくれよと頼み、それより三人は奥の間に入り、家人は一同台所に控えて待ち居たり。

 この時、小林は中の畳一枚を剥ぎて上に重ね、鬼丸は東向してその上に坐し、諸肌推しぬぎて後、吾腹をかき終るを待ち、両君の中に介錯頼むと云ひしかば、小林は台所にありし家人に向ひ鬼丸君の介錯は野口君がなしたりと云へと告げたれば、家人は承知せりと答へたり。 野口は同じく、東向して鬼丸の左に、小林は右に端座して、各腹をかき、咽喉を突きて死せり。鬼丸、年三十九。小林は二十七、野口は二十三。

 やがて、坂本茂は帰り来りて、この割腹の期に後れしを残念がり、直ちに馳せて官庁に訴へたれば、検視来りて之を観、その見事の最期を称せり。 小林家にては、小林、鬼丸、野口の三人割腹して後、僅かに一夜の事なりしに、二階の物置に寝かせたるは残念なり、立派に座敷に臥せしむ可かりしにとて、口惜がりしと云う。

  斯くてこの夜、小林家にては、遺骸を擁して親族一同夜伽したるに、妻マシ子は僅かに十九歳の妙齢なれば、その後事を如何に処置すべきかと話出でたるに、これを聞きたるマシ子は、決心の堅(かた)きを示さんため、独り部屋に入り、艶々しき黒髪を惜しげもなく、根元より切り落とし、心の丈を示したれば、母をはじめ、座にありし人々、何れも涙に面を掩はぬは無かりき。

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 その後マシ子は、節操堅固にして、歳月を過ごすうち、鎌田家は家を挙げて東京に出で、兄鎌田景弼(かまだ・かげすけ)の家に投じたる際、同家にては、小林家に相談して、マシ子も東京に伴ひ行きたり。東京に在るとき、如何に話の纏まりしにや、拒むマシ子をして、強いて小林家に離縁を申し込ましめたれば、小林家にても、妙齢の婦人を終世寡婦たらしめんは無惨なりとて、快くこれを承諾し、その後マシ子は、鎌田氏の佐賀県令たりし時、或人に再嫁し、二三人の子供までも出来たるが、その夫の素行乱れしかば、マシ子は止むなく里方に帰り来り、一日小林家の川尻町にあるを訪ひて、深く自己の過を謝し、妾があまりに附甲斐なかりしため、貞節を全うする能はずして、再嫁する事となり、今日不幸の身となれるは、畢竟神罰なりと、涙を流して懺悔し、数日滞留して帰りしが、斯くて神経を痛め、自ら刃に伏して死したりと云う。

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 熊本で起きた士族の反乱・神風連の乱は、熊本鎮台を刀と槍だけで襲い、1日で潰えた。
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