「明徳記」は明徳2年(1391年)12月、前陸奥守・山名氏清が足利義満に対して起こした乱の顛末を描いた戦記文学である。冨倉徳次郎校訂による岩波文庫版の解題では、作者は明らかではないが、足利義満近侍の者の一人と推定。成立は、明徳3年夏以降、翌年冬までの間であって、戦乱平定直後のものと考えられている。
岩波文庫「明徳記」34頁
去程に、軍は十二月二十七日を定(さだめ)たりけれども、紀伊国の勢そろはざりけるに依て、匠作おそく着給(つきたまひ)ければ、八幡にも今度の合戦せんとなり勢そろはでは如何とて、合戦は延引してげり。
さらば軍は正月二日と定(さだめ)たりし処、峯の堂八幡の軍勢共夜ごとに減ずるよし申しければ、「かくてはいかがあるべき。さらば年内も明春もいづれか合戦あるべき」とて、召具(めしぐせ)られたりける陰陽の博士にうらなわせられけるに、博士占形をひらきて、しづかに合戦の吉凶を勘(かんがふ)るに、「奥州は水性の人也。ときは今冬也されば水王して年内合戦あらば治定の御勝」とぞ勘申(かんがえもうし)たりける。奥州誠に快げにて、「さらば方々の責口へ相触(ふれ)て三十日、時定の合戦」とぞ定られける。
この陰陽博士、小林上野守を閑所に招て内々ささやきけるは、「御合戦吉凶の事仰下され候つる間、勘文の趣をば大概申上げ候き。夫占と云は推條をもて本とし、了簡をもて宗と仕(つかえつる)事にて候。奥州水性にて御渡候間、冬は王して御合戦利有べき事は治定と申ながら、十二月は冬の囚の位にて気春に近し。又水は北より南へながるるは陰の道にて逆なり。されば御本意を達せられん事如何と覚候。哀(あわれ)此辺に御陣を召れて打手の下向を御待候へかしとこそ存候へ。この分を申度候つれども、是まで思食立(おぼしめしたち)候事にて候へば、御気を損ぜられ候て、『何の勘文にみえたるぞ。又わたくしのすいか。然らば勘文にて利有とみえて、私に負(まく)べきよし推量はめづらしき勘進かな』と、仰を蒙候ては、生涯と存候間、勘文のおもむきばかりを申て候はいかに」と申ければ、
義繁申けるは、「元より此悪事を思立て軍に勝て身を立(たて)ん料とは更におもひより候はず。ただ一家亡(ほろび)て身を失(うしなわ)ん為と存ずる計(ばかり)にて候。ただ人のほろびんとてはわれ悪事をおもひたつ事昔より定れる事にて候間、うあらも文も不審なる事にこそ入候へ」と事のほかげに申ければ、人々皆この儀に同じにて、更にいさめる気色なし。
小林義繁、氏清に諫言す
岩波文庫「明徳記」36頁
去程に十二月二十九日くれほどに、奥州、小林をよびて、宣(のたまひ)けるに、「われこの間、当社をあがめ申(もうし)、賀茂社を造営したてまつる事はただ、大方の敬信のみにあらず。この一大事を思立(おもひたち)祈祷の一をかねたる也。
また、つらつら、事の心を案ずるに、新田左中将義貞は、先朝の勅命を承て上将の職に居し、天下の政務に携(たずさわり)き。我その氏族として国務をのぞむ條、謂(いわれ)なきにあらず。されば、先年事の次(ついで)ありし間、南朝より錦の御旗を申賜て今にありけり。今度、この旗を差(さし)て合戦をすべし。もし、軍(いくさ)に利あらば、争ふべき人なければ、御分、執事職に居して、毎事を申沙汰候へ」と委細に補せられければ、
義繁、更に返事をば申さずして、ただ、涙にむせびければ、奥州、案に相違して、あきれ給へるところに、小林、ややありて、申しけるは、「この間も、内々、申入度存候つれ共、播磨殿御越候て、事すでに御治定候ぬ。その上、近年は宇屋・蓮池やうの物に毎事を仰付(おうせつけ)られ、今般の御大事をも人しれず仰合(おうせあわせ)らるるうえは、不肖の身を以て愚意を申(もうす)に及ず。ただ、愁涙を含てまかりすぎ候き。そもそも当家の御事は、先年御敵にならせ給て候し時も、御後悔ありて、故殿御参の後、御一家の間に十余ヶ国の守護職を御拝領のみならず、諸国の御領どもその数をしらず。それらはただ、上意の忝(かたじけなき)至(いたり)也。されば、世こぞって賞翫申事、日比に超過せり。これに依て、御被官の輩ややもすれば在々所々にて強々の沙汰共仕て、一家の御悪名を立申(たてもうす)事、骨髄に入て口惜(くちおしく)存候。さるに、何にもして道をあらため、御家門一同にさ様の非義を誡(いましめ)られて上意をも重(おもく)し申され候へかしとこそ、明暮歎(なげき)存候ところに、結句、今御謀反の御企におよび候間、仰蒙候趣一事としてうつつとも存候はず。さればいかに神に忠をいたさせ給ふとも、全く正八幡大菩薩も賀茂上下の神慮にも、神は非礼を受けずと申候へば、御加護あるべしとも存候はず。また近年、莫大の御恩をわすれて、上様へむけ申て弓をひかせ給はん事、世の人定(さだめて)不思議のおもひをなすべし。または、天の照覧もはかりがたし。たとえ、またいったん、御合戦に利ありと申とも、天下の大名、誰人か今更、御所様をすてまいらせて、当家奉公のおもひをなし候べき。然(しから)ば、神明仏陀の御加護もなく、諸人上下かたむけ申さば、何の助あてか始終御代をめされ候べき。これを歎て首陽に入らむとすれば、弓矢の道、既にかけて子孫ながく奉公の儀をたつ。これを進て忠功を致さむとすれば朝敵の責をのづから至て、一身をおくに所あるべからず。ただ今度合戦あらば、義繁に於ては一番に討死を仕て泉下に忠義をあらはすべきにて候。さらんとりては執事職の事は他人に仰付らるべし」とて、目ももちあげず。涙をおさえてまかり立ちければ、さばかり勇(いさみ)進み給へる奥州をはじめとして、諸人耳を澄ましつつ、且は歎(なげき)、且は感じ、皆鎧の袖をぞ濡らしける。
その後、上総介高義を近付(ちかづけ)て、「ただ今の小林が気色定て楚忽の死をいそぐべし。これまでまた治定したる事を思とどまるべきにもあらず。所詮、明日は小林と御分一所に成て毎事を談合候へ」と宣(のたまひ)ければ、上総介も心の中には残りとどまりて、傾く運の末を見きかん事はあるまじき物をと思われけれども、「畏て承候」とてやがて退出し給けり。されば晦日朝、二条大宮の一番の軍に上総介も小林も一度に討死しけるこそ、哀なりし事どもなれ。
さるほどに十二月晦日の卯刻に、四條大宮よりのぼり押し寄せて、「山名上総介高義・小林上野守義繁、今日の軍(いくさ)の先がけにて、討死する」と声々に呼ばわりて、時を同どぞあげたりける。大内左京権大夫義弘是を聞きて、「一番勢、宗徒の者ども、皆この攻め口へ寄せたりけり。是はのがれぬ所なり。敵は定めて大勢にてぞあらむ。この陣小勢なりといへども、面々は皆、名を知られたる人々なり。西国にては度々の合戦に毎度、名を揚げたる兵なれども、都あたりの軍(いくさ)はただいま是を始めなり。われらが安否、この軍(いくさ)にあり。一人も残らず切死(きりじに)して名を萬代の誉れに残し、尸(かばね)を一戦のちまたに捨てよ」と呼ばわりて、かねて定めたることなれば、五百余騎の兵ども、一度にはらりと降り立ちて、楯を一面につき並べ、射手の兵二百余人左右の手さきに進ませて、「中を破られるな。敵、もし馬にて破りて通らんとせば、馬を切りてはねさせよ。落ちらば押さえて差し殺せ。もしまた敵も降り立ちて、切りてかからば閑(しずま)りて、手もとへ近づけ、組討にせよ。敵引くとも追うべからず。手いたく切りてかかるとも、一足も退くな」と大音を揚げて下知しつつ、わが身も真前に降り立てり。
権大夫のその日の装束(いでたち)には練貫を紺地で染めて縅(おどし)たる鎧(よろい)に、同毛の五枚甲の緒をしめて、二尺八寸の太刀をはき、三尺あまりなりける長刀を引きそばめ、軍勢と同じく降りたれども、青地の錦の大母衣(おおほろ)をかけたりければ、枯野(かれの)の霜に花そひてまぎるる方もなかりけり。
小林が先懸(さきがけ)の兵二百余騎、二條大宮へ駆け出て、敵の陣を見渡せば、雨は宵より降りはれて、暁ふかく霧こめて、物色はさだかに見えねども、東嶺にわかるる横雲の、ひまよりしらむ夜は明けて、篠目見ゆる程なるに、ひた甲五六百が程をり立て、南向きに楯を一面につき並べ、其のひまひまには兵ども、枯野になびく尾花のごとく、切っ先をそろえてしづまり返りてひかえたり。内野の方を見渡せば、陣々の大勢打立て、大旗小旗ゆらめきわたり、五六萬騎もあらんと、雲霞のごとくひかえたれば、大山に向かう心地して、上総介も小林も退屈してぞ覚えける。
さるほどに二條大宮より軍(いくさ)始まりて、馬の足音、ときの声、天地もひびきわたりたり。権大夫の兵は神祇官の森を後ろにあて、射手の兵物(つわもの)は、皆、胴丸、腹当、帽子、甲にて、楯より左右に流れいでて、矢さきをそろえてさしつめ引きつめ、雨の降るごとくにぞ射たりける。小林が兵、射立てられ、馬の足を立てかねて、是もはらりと降り立ちて、大内勢の真中へ、鋒(ほこ)をそろえてきている。敵味方入り乱れて、分々の敵に相合て、大宮を南北へ、二條を東西へ、追いつ返しつ、まくつまくられつ、五人十人、手に手に手を取り組みて、一度に討死するもあり。ことはりなれや、西国に名を得たる大内勢と、中国にては勇士の聞こえある山名方の「鬼ここめ」なれば、互いに勇み進みて、ただ死を限りに戦うものはあるけれども、命を惜しみて一足も退くものはなかりけり。敵味方のわきもみえず、二三百人死にかさなりて、血は路径の草を染め、尸(かばね)は原上の墓をなす。慙(はじ)なしといえども愚かなり。
かかりけるところに、上総介高義、小林に向かいて宣(のたま)いけるに、「この軍(いくさ)は味方の利あるべしとは覚えず。とてものがるまじき軍(いくさ)なり。さらんとりては、一騎になりとも、御前近く駆け入りて、御陣の味方を枕にして死ぬよりほかのことはなし。敵はみな馬放れたれば、なにほどのことかあるべきなれば、大宮をのぼりに駆け破りて、御所近くまいり寄せて、討死をせばや」とのたまいければ、小林、もっともと同じつつ、死に残りたる兵ども三十騎ばかり、ときを同とあげて駆け通る。権大夫是を見て、「一騎なりとも敵を上に通したらんはただ、この陣の不覚なるべし。義弘討死せざらん程は一人も通すまじきものを」と言い、神祇官の東おもて、冷泉大宮へ、横合いにむずと走り出でて、駆け通らんとする馬の●尽(むながいづくし)、二重皮、四肢、平頸、鐙(あぶみ)の鼻切りては切りすえ、薙(な)いでは薙ぎふせ、落ちる武者をば首をとり、戦物をば小具足も鐙(あぶみ)もたまらず同切て、権大夫の長刀の刃にまわる人馬ともに多くはここに討たれけり。