伯耆国日野郡の国人に、日野山名氏と呼ばれた山名氏の一族がいた。山名義幸の子孫と伝えられ、生山城(亀井山城)を本拠に室町時代から戦国時代までを生き抜いた。(記事表示)

 山名義幸の父は師義。足利尊氏に従って上野から上京した山名時氏の嫡男である。義幸は師氏の長男に当たるが、病弱だったため、一族の惣領は師義の弟の時義へ移っている。

 義幸が在地領主化した日野郡は、伯耆の西南部に位置する中国山地のあたりで、出雲、備後、備中、美作国と連絡する交通の要衝だった。

 伯耆の守護は義幸の弟である氏之の系譜が継いでいたが、守護家の内紛に乗じて、出雲の尼子経久が侵攻の手を伸ばしてきていた。日野郡は戦略上の要地でもあるため、尼子勢の進出は早く、永正7年(1510年)には尼子氏重臣の亀井秀綱を日野郡印賀(日野郡日南町印賀)に派遣された記録が残っている。

 日野山名氏については、鳥取県立公文書館編の鳥取県ブックレット4「尼子氏と戦国時代の鳥取」を参考にした。それによると、尼子氏の侵略に対して、日野山名氏は、尼子傘下に降るのでなく、村上氏や行松氏らとともに国外退去したという。

 熊本・細川家がまとめた藩士の「先祖附」には、小林恒太郎らの先祖を、「伯州山名家の分流にて、丹波国に在城仕り居り申し候。其後、山名家没落の節、一族、何れも戦死仕り候由。(略)」と記している。

 「山名家没落の節」が指し示す歴史的事実は、まだ不明だ。伯耆守護・山名家の滅亡を指すのか、日野山名家のような分家の事件なのか、わからない。守護家にしても、内紛で敗れた側かもしれないし、内紛には勝ったが、尼子氏に滅ぼされた側かもしれない。

 該当しそうな出来事が多すぎる、ということは言えそうだ。

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本能寺の変と愛宕山 (2010.02.13)

 本能寺の変の際、細川藤孝(幽斎)・忠興父子は、明智光秀に与せず、結果的に滅亡を免れた。丹後の国・宮津にいた藤孝らに変を知らせたのは、早足の異能を持つ早田道鬼斎という者であるが、そこには愛宕山下坊の住職・幸朝がかかわっていた。本能寺の変の前に、光秀が愛宕山に参籠し、西ノ坊では連歌会を催したことは有名だ。一方で、細川家も愛宕山が情報収集網の中に登場するのは奇縁というほかない。(記事表示)

 「綿考輯録」第一巻(巻四)に本能寺の変前後の様子が登場する。

 五月廿九日、信長公御父子近臣僅の御人数にて御上洛、本能寺に御座候処、明智光秀逆心にて六月朔日の夜俄に洛に入、二日未明より本能寺を囲み、信長公生害させ参らせ、信忠卿も同日二条にて討れさせ給ふ、藤孝君は是よりさき、信長公御父子上洛、佐久間九郎も御勘気御赦免有て御供と聞へける故、御歓の御使者として、米田求政を被遣、求政は二男藤十郎(十二歳)十如院雄長老のもとへ入学の兼約有之故、幸と相具し、今出川相国寺門前の私宅に着する折柄、右騒動を聞、愛宕下坊幸朝と相談し、早田道鬼斎(武功の浪人成故求政育み置隠れ無き捷道十六里の道を三時計に着せしと云)を丹後にさし下し、御父子の御事を告奉る、三日幸朝よりの飛脚(道鬼斎也)宮津に来る、藤孝君・忠興君御仰天御愁傷甚し、暫有て藤孝君被仰候は、我は信長公の御恩深く蒙りたれば、剃髪して多年の恩を謝すへし、其方事光秀とは聟舅の間なれは彼に与すへきや、心に任すへしと有、忠興君御落涙被成、御同意にて倶に御薙髪被成候、

 米田求政は細川家重臣。たまたま、京での公用のついでに私事を済まそうと私宅に立ち寄った時に、本能寺の変に遭遇。早田道鬼斎は「武功の浪人」で、快足の持ち主として米田求政が召抱えていたという。

 愛宕下坊幸朝とは、愛宕山下坊「福寿院」住職の幸朝である。米田求政が主君に急を知らせるに際し、愛宕山の住職が相談に乗るのは、少々、奇異に感じられる。

 本能寺の変が起きた天正10年6月。この年の3月には、藤孝の三男・幸隆が12歳で福寿院に入門。「福寿院記」によると、幸隆は幸朝の跡を継いで福寿院住職となり、幸隆還俗後は、丹後の一色家出身の幸能、次いで卜部家出身の幸賢がそれぞれ住職となるなど、細川家と福寿院は密接な関係があったことがうかがえる。

 冒頭の光秀の参籠に見られるように、愛宕権現・勝軍地蔵は戦国武将の信仰を集め、戦勝祈願が多かったことから、情報が集まる「結節点」であったことが推測される。

 また、天狗伝承を生んだ霊山でもあり、愛宕山伏と呼ばれる修験者が多く、その面でも細川家の諜報部門の一端を福寿院が担った可能性も否定できない。

 本能寺の変前後――。刻々と変わる情勢を正しく分析するには、正確な情報が欠かせない。光秀の愛宕山への参籠から連歌会、信長襲撃につならる一連の情報を伝達するうえで、福寿院は重要な役割をになったのではないか。

 そうした部署につくことになる幸隆は、純粋な出家というわけにはいかなかっただろう。「児小姓」として幸隆に仕えた小林勘右衛門は、何を求めて出仕したのであろうか?

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 小林勘右衛門が京都の愛宕山に、細川幽斎の三男・幸隆を訪ねたのは戦国時代も終わりに近い天正年間のことと思われる。幸隆の小姓として仕え始めた縁で、明治維新まで細川家で禄を食むことになることを考えれば、小林党の支流である肥後小林家にとって、愛宕山は“開運の地”と呼んでいいかもしれない。(記事表示)

 小林家の「先祖附」によると、愛宕山の宿坊の一つ、福寿院下坊の住職をしていた幸隆のもとへ、父の丹波に連れられた勘右衛門が目通りし、小姓として仕え始める。以後、幸隆に従って、関ヶ原の合戦の折には丹後田辺城の籠城戦に参加、細川家が豊前国に移ってから、細川忠興により、正式に家臣として召し抱えられた。

 幸隆の菩提寺の記録「妙庵寺由緒」によると、幸隆の愛宕山入山は天正10年(1582年)で武将に還俗したのは天正19年(1591年)とあるので、勘右衛門の愛宕入りもこの間の出来事である。

 愛宕山で幸隆の前に現れるまでの小林丹波、勘右衛門父子については、先祖附の表記に頼るしかない。それによると、「伯耆国の山名家が滅んだ時に、一族は討死したが、小林民部丞の玄孫にあたる小林丹波は、幼少だったため生き延び、丹波の笹山で暮らしていた」とされている。

 山名氏は、山陰に覇を唱えた守護大名だったが、下克上に世に入り、戦国大名化に失敗し、一族はそれぞれの分国で衰退していった。

 伯耆の山名家は、隣の出雲国の戦国大名・尼子氏の伯耆侵攻に遭い、大永4年(1524年)に滅亡。これにより国を追われて以降、暮らしていた丹波国でも、西に勢力を伸ばしてきた織田家との戦いが始まり、明智光秀によって天正7年(1579年)に、丹波は平定されている。

 こうしてみると、小林丹波は伯耆と丹波で、かろうじて一族滅亡の危機を免れた可能性がある。戦国の世を生き延びるため、出家の身の幸隆に、わが子、勘右衛門の将来を託した小林丹波だった。できるだけ、戦(いくさ)の埒外に子孫を置きたかったのかもしれないが、結局、幸隆は還俗して武将に戻ってしまう。

 乱世に生きた小林丹波の事跡は、「先祖附」以外には残っておらず、勘右衛門を幸隆に託して以降は、歴史から姿を消している。

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 伯耆国の守護山名家の滅亡は、大永4年(1524年)5月――。隣国出雲の戦国大名・尼子経久が伯耆に侵攻して山名方の諸城を落とし、守護大名の山名氏久を伯耆の国から追い払ったとき、と言われてきた。いわゆる「大永の五月崩れ」と呼ばれる事件だ。後に細川家の家臣となる小林家の先祖附に、一族の多くが戦死した「山名家没落の節」という記述は、伯耆山名家の滅亡のことを指すと思われる。(記事を読む)

 「大永の五月崩れ」は、1660年ごろの成立したとされる、毛利家側の立場から書かれた軍記物「陰徳記」に記述されている。

 (尼子)経久ハ当正月中旬(大永四年)ヨリ伯耆ノ国ヘ発向シ、山名ト数カ度合戦ニ及ケルカ、与土井(淀江)・天満・不動ケ嶽・尾高・羽元石(羽衣石)・泉山以下数ケ所ノ城郭ヲ責落シケル間、山名入道国ニ堪エズ、因幡ヲサシテ逃入、其後肥後ノ宇土ノ屋形ヲ頼リ、九国ニ下リケルト聞エシ。(陰徳記巻第五

 一方で、大内義隆が周防・長門の軍勢を率いて安芸国に入り、当時、尼子氏に従っていた安芸・吉田郡山の毛利元就は尼子経久に出兵を乞う場面に続く一説だ。

 山陰・山陽の支配をかけた大内・尼子の抗争は佳境に入っており、尼子氏も伯耆を先に片付けた上で、大内との決戦を志向したようだ。

 山名氏は戦国大名化に失敗。国人層を抑えられなかったようで、伯耆守護としての存在感を失っている。国人層から新たな権力の台頭も、他国を圧倒するほどには育っていなかった。

 こうした状況の中での伯耆山名家の滅亡だったが、「大永の五月崩れ」に関する最近の研究では、尼子氏の伯耆侵攻は、従来“通説”とされてきたように一気に成し遂げられたではなかったとされる。

 永正年間以降、徐々に伯耆国内への勢力を浸透していったことが近年の研究で明らかにされつつある。岡村吉彦氏らの研究である。(岡村吉彦氏「戦国時代の伯耆国における戦乱史」鳥取県中世城館分布調査報告書第2集=鳥取県教育委員会など参照

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 兵庫県篠山市にあった沢田城は、明智光秀の丹波侵攻により落城。山名家にゆかりのある小林一族が城主を務めていたとされるが、滅んだ。城跡には小林寺が建ち、小高い丘の一部には墓地が広がっている。篠山市の名前が入った説明板には、以下のような内容が書かれていた。(記事表示)

沢田城跡の説明板

沢田城跡
 八上城主波多野秀治の武将小林近江守長任(ながとう)の拠城跡です。
 平地よりの高さは約六十メートル。この小山全体に築かれた山城で、沼や水田もたくみに利用しています。東南に毘沙門堂があり、このあたりが大手(城の表門)で、搦手(裏門)は北の池に向かったところです。
 笹山、飛の山などともに篠山盆地中央部の防衛の役目をもっていました。
 天正七年(一五九七)五月、ときの城主小林修理進(しゅりのしん)重範(しげのり)が明智光秀の攻撃を受けて奮戦の後、討死し落城しました。

                                  篠山市

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細川家臣の小林家初代は、田辺城籠城衆の1人 (2008.05.14)

 肥後細川藩士としての小林家の初代は、小林家の「先祖附」によると、小林勘右衛門という。関ヶ原の戦い(一六〇〇年)の際、西軍の軍勢に囲まれた細川幽斎 の丹後・田辺城に籠城した一人と伝えている。幽斎が万が一、討ち死にすれば、幽斎が伝える古今伝授の断絶を恐れた後陽成帝による勅使で、和議・開城となっ た逸話でも有名な籠城だ。(記事表示)

 「先祖附」は、各藩士に家系を提出させたもの。熊本県立図書館蔵の先祖附によると、明治維新時の藩士だった小林恒太郎の初代に関して、次の記録が残っている。

初代、小林勘右衛門儀、丹波国の者にて御座候。
三斎様、丹後国御在城の節、妙庵様、愛宕に御登山遊ばされ候みぎり、 御児小姓として召し出され、数年相勤め候ところ、関ヶ原御陣に付き、 妙庵様、丹後国田辺の御城へお越し成られ候とき、勘右衛門儀御供仕り、 田辺御籠城の節も、御用を仰せ付けられ候旨、承伝申し候。
さそうらいて、豊前国にて、三斎様より御知行百五十石を拝領し、 御奉公相勤め候。
寛永七年病死仕り候。

 文中、三斎様は細川忠興、妙庵様は忠興の弟の幸隆。

初代、小林勘右衛門は、丹波の国出身。
細川忠興公が丹後の国に在城されていた時のこと。 弟の幸隆公は、愛宕(京都の愛宕山)におられ、 小林勘右衛門は、その時に小姓として召し出された。
数年、勤めたところで、関ヶ原の合戦に至った。 幸隆公は丹後国の田辺城に籠もることになったが、 勘右衛門もお供し、田辺籠城戦でも御用を 仰せ付けられたと伝えられる。
その後、国替えになった豊前国において、忠興公から、 知行として一五〇石を拝領し、ご奉公した。
寛永七年(一六三〇年)に病死した。

 藩の公式の記録ともいえる「綿考輯録」巻五に、勘右衛門の出自は記載されている。

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 小林勘右衛門の次世代から、細川家に仕えた小林家は二家に分かれる。幕末の当主は、小林恒太郎と小林貞之助。小林貞之助系の「先祖附」では、初代の勘右衛門の先祖についての記述があった。そこに登場したのが、「小林民部丞」という名前だった。(記事表示)

 貞之助の先祖附と、これまで紹介した恒太郎の先祖附、綿考輯録との違いは、冒頭の4行。違いだけを抜粋して紹介する。

先祖は小林民部丞と申す者、
伯州山名家の分流にて、丹波国に在城仕り居り候。
其後、山名家没落の節、一族、何れも戦死仕り候由。
右、民部丞の玄孫、小林丹波と申す者、
幼少に御座候ひて、同国篠山と申す所へ引き籠り押し移り居り申し候由、承伝申し候。

(以下、意訳)

先祖は、小林民部丞と申す者。伯耆の国の山名家の分流で、丹波の国に在城していた。
山名家が没落した際に、一族はいずれも戦死した。
民部丞の玄孫である小林丹波と申す者は、幼少だったので、丹波の国の篠山に引き籠ってた、と伝えられている。

 以下、貞之助、恒太郎の先祖附、「綿考輯録」とも、ほぼ同じ内容で、田辺籠城への経緯が続く。

 寛永7年(1630年)の勘右衛門死後、嫡子半三郎と二男伝三郎に各百五十石の知行が与えられたことが、「綿考輯録」巻五に記されている。本家の先祖附に、より詳しい記述が残った、と考えていいだろう。

 小林勘右衛門の先祖とされる小林民部丞――。山名と小林民部丞の組み合わせは、太平記に登場する山名時氏の執事の小林民部丞がまず、頭に浮かぶ。

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 藩の公式の記録ともいえる「綿考輯録」巻五に記されている勘右衛門の出自は以下の通りだ。(記事表示)

小林勘右衛門
父は小林丹波と申、伯州山名家之分流にて、山名家没落之節、
丹波国笹山と申所に引籠居候由、忠興君丹後御在国、
妙庵主愛宕御登山之時、丹波倅勘右衛門御児小姓被召出候、
妙庵主田辺御籠城被成候に付、松山権兵衛・宮村出雲、
一列に被召仕候由、此節幽斎君御前江召出、御腰物拝領、
其後忠興君心操之様子被聞召、御知行百五拾石被下候、
寛永七年十一月病死、嫡子半三郎に百五拾石、
二男伝三郎に百五拾石被下候、今の勘太郎、勘右衛門等が祖なり

以下、現代文に直す。

小林勘右衛門の父は、小林丹波と申す。 伯耆国の山名家の分流で、山名家が没落した際に、丹波国の篠山の地に引き籠っていた。
忠興が丹後にいたころ、弟の幸隆は愛宕山におり、この時、丹波の倅の勘右衛門は、小姓として召し出された。
幸隆公が田辺籠城をなされ、松山権兵衛、宮村出雲とともに召し仕えた。この際、幽斎の御前に召し出され、御腰の物を拝領した。
その後、忠興公が心操の様子をお聞きになって(?)、知行として百五拾石を下された。
勘右衛門は、寛永七年十一月に病死した。嫡子半三郎に百五拾石、二男伝三郎に百五拾石を下された。今の勘太郎は、勘右衛門等が祖先である。

 おおむね、先祖附記載の内容と等しいが、勘右衛門の父・丹波、山名家、丹波の篠山、二代目の時、家が二家に分かれたことが書かれている。嫡子・半三郎系の「先祖附」を見ると、そこには、もう少し詳しく、小林一族の出自について紹介してあった。

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 丹波篠山の地(兵庫県篠山市)に、沢田城という小さな山城がある。丹波の領主で、明智光秀に滅ぼされた八上城主・波多野秀治の重臣、小林近江守長任が築いた。 (記事表示)

沢田城跡

 小林長任、長治、時道と続き、最後の城主は小林修理進重範。織田軍による丹波平定が大詰めを迎えた天正7年(1579年)、修理進は柏原八幡山城へ迫った明智光秀を迎え撃ったが、討ち死にし、沢田城もこの時に落ちたようだ。

 徳川の世に入り、篠山城が山陰道の要衝を守るために築かれた。篠山城から北東1キロほどのところにある小高い丘に、小林氏の小城は建てられていた。

※写真=沢田城跡のあたり。中央やや左に小林寺の屋根が見える(兵庫県篠山市)

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 関ヶ原の戦いの際に、丹後・田辺城では、西軍の大軍に囲まれた細川幽斎ら留守部隊が奮戦した。この時、活躍したのが幽斎の三男、幸隆(妙庵)である。(記事表示)

 細川幸隆は元亀2年(1571年)、幽斎の第四子として誕生。長男忠興、二男興元。3人の母は、若狭熊川城主沼田上野介光兼の娘・麝香(じゃこう)である。

 元亀元年(1570年)には、織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り、伊勢長島の一向一揆を攻略、比叡山焼き討ちなどと続く。

 細川家にとっては、藤孝(幽斎)は、足利義昭の命で三好・松永などと戦っていたころだ。

 天正7年(1579年)には、明智光秀の下で丹波に攻め入り、波多野氏を亡びしている。この翌年の天正8年(1580年)には、丹後に入国している。

 幸隆についての研究は、中村格氏が「宝生」に3回にわたってまとめられた「妙庵細川幸隆について――安土・桃山期の能伝承者」(初出「宝生」第22巻第7号)が詳しい。以下は、概ね同氏の研究の紹介である。

 幸隆が事跡がわかるのは、天正10年(1582年)。3月に、京都の愛宕山下坊「福寿院」に入ったことが、大分県宇佐市安心院町の菩提寺に残る「妙庵寺由緒」に記されている。12歳の時である。

 天正10年は天下が大きく動いた年で、愛宕山も深くかかわっている。幸隆が出家した3か月後の6月には、明智光秀が本能寺に信長を襲った。これに先立ち、愛宕山で催した連歌会「愛宕百韻」は有名だ。

 幸隆は出家の身で終わらず、還俗して武将となり、細川家に戻る。その時期を、「綿孝輯録」と「細川家記」では、天正11年(1583年)、「妙庵寺由緒」では天正19年(1591年)としている。

 天正11年では、幸隆11歳で、出家期間はわずかに1年。天正19年だと21歳になっている。福寿院の住職を務めた記録が残っているので、「妙庵寺由緒」の記事が妥当だと思われる。

 幸隆30歳の慶長5年(1600年)に、田辺城籠城戦は起きる。上杉景勝を攻めるために徳川家康に従い、当主忠興らが家中の諸将を連れて東上した留守を守っていたのは、幽斎と幸隆をはじめとする約500人だったという。

 幸隆が愛宕山にいたころに仕えた小林勘右衛門も籠城に加わり、幸隆・幽斎の近くにいたことが「綿考輯録」などに書かれている。

 細川家は関ヶ原での戦功などにより、豊前国を領したが、幸隆は、慶長8年(1603年)、竜王城(大分県安心院)の城主となり、4年後の慶長12年11月1日に、37歳で亡くなる。

 幸隆自体は、どちらかというと武将よりも、父・幽斎より、文化人の血を受け継いだようだ。細川護貞著「細川幽斎」では、以下のように賞賛している。

その生涯に能を極め、能に関する幾多の書きつけを残している。
能楽史研究の上では重要な人物である。

謝辞

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 キリシタン大名の高山右近は、一説では上野の高山党の流れとも伝えられる。その子孫は、現在も石川と大分に残っている。高山党は、平良文より続く秩父氏の流れ。上野国緑野郡の高山御厨に勢力を張った武士団で、小林氏は高山氏から出ているとする説も有力だ。(記事表示)

 戦国時代の摂津高槻城主の高山右近は、日本史の中でも有名な武将。キリシタン追放令でも棄教せず、最後はマニラへ追放され、異郷の地で最期を迎えた。

 大分の高山氏は、右近の二男、亮之進(助之進)が豊後の大友義統を頼ったとされる。長崎のキリシタン研究家の片岡弥吉教授が昭和12年に、大分市長を務めたこともある高山英明氏の系図と高山南坊(右近)の碑文を刻んだ塔を発見した。この塔は現在、「舞子浜霊苑」に残されている。

 高山右近の先祖については、甲賀五十三家の一つに数えられる家だったとするものもある。

 ただし、吉川英治著「高山右近」では、甲賀出身であり、しかも高山党の流れを引くとして設定になっていることを、余談ながら付記しておく。太平記にも名の残る武将の裔とした部分で、これは、新田十六騎の一人、高山遠江守のことであろう。

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 神流川北岸の高山御厨が小林党のふるさと。現在の群馬県藤岡市あたりだ。その北西の高崎市には、山名氏がいた山名郷がある。
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  • 山名は“弱敵”か? (02.17)
  • 伯耆山名家の崩壊 (02.15)
  • 勘右衛門の仏門入り? (01.16)