「太平記」は、鎌倉幕府の滅亡から建武の新政とその崩壊、南北朝の分裂、二代将軍足利義詮の死と細川頼之の管領就任まで約半世紀を描いた軍記物である。全40巻。小林一族が仕えた山名家の活躍は南北朝のころ顕著となり、小林を名乗る武将もしばしば登場するようになる。
小学館日本古典文学全集「太平記4」28頁
和田・楠は敵の気を計って平野へ帯(おび)き出さんと、法勝(ほっしょう)寺の西門を打ち通って、二条川原にぞ磐へたりける。ここに案の如く佐々木山内判官、楠が勢に欺(あざむ)かれて、箙胡(えびら)を扣(たた)いて時の声を揚げ叫(わめ)いて、切ってぞ懸(か)かりける。楠が勢東西に開き合って散々に射る。射れども山内判官事(こと)ともせず、敵を三方に相受けて、暫(しばら)く支へて戦ったる。これを見て、小林右京 亮(うきょうのすけ)、「手合わせの合戦して、かへって敵に気を付けじ」と、七百余騎を左右に分けて、横合いに攻め戦って、山内判官思ふ程戦って、後陳(ごじん)の荒手(あらて)に譲って、神楽岡に引き退く。
【巻三十二】のあらすじ
小学館日本古典文学全集「太平記4」55頁
文和3年(1354)12月13日に、山名時氏、師義父子は上洛のため伯耆国を五千余騎で出立し、途中、越中の桃井直常、越前の斯波高経も加わる旨の知らせが届いた。
将軍は24日に、天皇を奉じて近江国武佐寺へ退去。翌年正月16日には、足利直冬を大将に、桃井、斯波軍が三千余騎で入洛。
文和4年(1355)2月4日、足利尊氏は三万余騎で東坂本に着陣し、義詮は摂津国神南(こうない)の峰に陣を構えた。対する宮方の直冬は、東寺に本陣を置き、直冬、桃井、斯波の六千余騎、淀川沿いに山名時氏・師義の五千余騎、男山の麓に吉野の官軍三千余騎が陣を張った。
神南山の将軍方は、第一陣が西の尾根に赤松・佐々木の二千余騎、第二陣が南の尾根に細川頼之・繁氏の四国勢一千余騎、北の峰には第三陣として義詮を大将とし、佐々木道誉、赤松則祐ら重臣が三千余騎を率いていた。
宮方の山名師義・義理兄弟の三千余騎は、第一陣目がけて駆け上がり、佐々木勢を襲った。時氏と和田・楠らの五千余騎は南側から登り、第二陣と白兵戦を展開し、四国勢を山から追い落とした。(※小林民部丞が時氏の勢に加わっている)
第三陣も師義らの六千余騎に追い詰められたが、老将の則祐・道誉が大音声で叱咤激励し、劣勢を挽回した。山名勢の本陣への退却を聞いた尊氏は、比叡山から下りて、東山に陣を構えた。
2月15日の朝、東山に陣取る将軍方の軍勢の動きを見て、東寺を本陣とする宮方から、桃井直信・直常、斯波氏頼が進発した。夕には仁木義長・土岐頼泰の三千余騎が桃井、赤松らの二千余騎と開戦。
3月12日は、将軍方の七千余騎が集結、七条西洞院に出撃した。この日は、斯波高経と畠山義深が戦った。数日間、数百回に及ぶ合戦の中、将軍方が日を追って勢いを増したのに対して、宮方は兵糧運送の道を閉ざされ、3月13日の夜半、直冬は諸将とともに東寺から退去した。
小学館日本古典文学全集「太平記4」68頁
二陳(にじん)の峯をば、細川右馬頭(うまのかみ)頼之・同じき式部太夫繁氏を大将にて、阿波・讃岐・備前・備中・備後の兵どもが三千余騎にて堅めたりけるが、ここは殊更山険しければ、敵南よりはよも揚げじと思ひけるところに、山名伊豆守を先として、小林民部丞・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後・因幡の兵ども五千余騎、さしもの険しき山路を磐折(つづらお)りにぞ上りたりける。この陳は前の険しきを頼んで、鹿垣(ししがき)を一重をも結わざりければ、両方時の声を合はせて、矢一つ射違ふる程こそありけれ、やがて打物に成って火を散らす。まず一番に敵に合ひける細川式部太夫の兵、四国勢の中に、豊嶋三郎・秋間兵庫助兄弟三人・生夷(いくいな)四郎佐衛門尉(さえもんのじょう)一族十二人、手の定(じょう)戦って、一足も引かず討死す。これを見て坂東・坂西・藤家・橘家の者ども、少しあぐんで見えけるを、備前国住人薄三郎佐衛門尉父子兄弟六人入り替って戦ひけるが、次(つづ)く御方(みかた)なければ、これも一所にて討たれにけり。
その後この陳色めきて、兵しどろに見えけるを、小林得たり賢しと、勝に乗って短兵急に拉(とりひし)がんと、揉みに揉んで責め上りける間、四国・中国の勢三千余騎、山より北へ捲(ま)くり落され、遥かに深き谷底へ頽雪(なだれ)を突いてぞ落ち重なりける。二陳の敵破れて御方の進み勇める気色を見て、一陳の寄手(よせて)などかは気に乗らざらん。大将山名右衛門佐・舎弟五郎義理(よしただ)真前(まっさき)に進み玉へば、相順(あいしたが)ふ兵ども誰かは少しも擬議すべき、我先(われさき)に敵に合はんと諍(あらそ)ひ進まぬ者なし。(太平記巻第三十二)
岩波書店日本古典文学大系「太平記3」177頁
将軍僅(わずか)に五百余騎の勢を率し、敵の行合(ゆきは)んずる所までと、武蔵国まで下り給ふ。鎌倉より追著(おっつき)奉る人々には、畠山上野・子息伊豆守・畠山左京大夫・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・其次式部大夫・仁木左京大夫・舎弟越後守・三男修理亮・岩松式部大夫・大嶋讃岐守・石堂左馬頭・今河五郎入道・同式部大夫・田中三郎・大高伊予守・同土佐修理亮・太平安芸守・同出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曾我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同三郎佐衛門・饗庭命鶴・和田筑前守・長井大膳大夫・同備前守・同治部少輔・子息右近将監等也。
元より隠謀有りしかば、石堂入道・三浦介・小俣少輔次郎・芦名判官・二階堂下野次郎、其の勢三千余騎は、他勢を交えず、将軍の御馬の前後に透間(すきま)もなくぞ打たりける。
久米河は一日逗留し給へば、河越弾正少弼・同上野守・同唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同下野守・同修理亮・高坂兵部大輔・同下野守・同下総守・同掃部助・豊嶋弾正左衛門・同兵庫助・土屋備前守・同修理亮・同出雲守・同肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同三郎左衛門・二宮但馬守・同伊豆守・同近江守・同河内守・曾我周防守・同三河守・同上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早河刑部大夫・同勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿嶋越前守・嶋田備前守・浄法寺左近大夫・白鹽下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守、都合其勢八萬余騎、将軍の陣へ馳せ参る。