- 大内氏実録に登場する長刀「小林」 (2011.01.19)
- 「鬼ここめ」と恐れられた小林上野介 (2010.03.16)
- はみ出さざるを得なかった者たち (2010.02.07)
- 山名氏の“ゴー・ウエスト” (2009.11.24)
- 上野介の憂鬱 (2009.10.21)
- 明徳の乱:戦機 (2009.09.24)
- 明徳の乱:計画 (2009.09.20)
- 明徳の乱で使われた小林の太刀 (2009.06.18)
- コシャマインの戦い (2009.05.29)
- 大内家に伝わる「小林長刀」 (2009.05.24)
- 明徳記と能「小林」の文学性 (2009.04.03)
- 明徳の乱を題材にした能「小林」 (2009.03.31)
- 上杉氏の平井城進出 (2009.01.24)
- 小林義繁、大内義弘と一騎討ち (2009.01.09)
- 明徳の乱に出陣したのは、小林重長? (2007.09.29)
- 荻野朝忠叛き、小林左京亮、丹波守護代に (2007.09.29)
- 荻野朝忠、丹波・板井城を攻める (2007.09.29)
- 小林右京亮、佐々木山内判官の勢を退ける (2008.07.10)
明徳2年(1391年)の明徳の乱で、山名氏清の武将・小林上野守(介)は京都・内野で幕府側の先鋒を務めた大内義弘と一騎打ちの末、敗れる。この時、小林を討ち果たした大内義弘の長刀が「小林長刀」として、大内家が滅亡するまで家宝として残されていたことは、軍記物語「陰徳記」に触れられている。「大内氏実録」(明治18年、近藤清石著)の世家第三「義弘」の中には、さらに詳しく紹介されていた。(記事表示)
明徳の乱では、神祇官の杜を背にして陣を敷いた大内勢は馬を降りて徒歩で山名軍の突撃を受けとめた。義弘の得物は長刀。これに対して小林も下馬して、太刀で打ち合った。
これを受け、実録は「小林」と名づけられた長刀に言及。
系図に、「此時義弘所持之長刀、号小林長刀為家珍」とあり、此刀大内氏滅亡の後、毛利氏厳島神社に奉納して神庫にあり。明徳記三尺一寸とするはあやまりにて刃長二尺五寸六分、茎長一尺五寸五分五厘、刃頗る欠け、且切込もありて当日の力戦を想像せらるる品なり。実に小林と名づけしもことわりとおもはる。
刃こぼれした長刀をそのまま、家宝にしたのは、この一騎打ちを心にとどめるためだったのだろう。
一方の小林が手にしていた太刀も、奈良興福寺の大乗院門跡・尋尊が書いた日記「大乗院寺社雑事記」に登場。乱後100年を経過していたころの日記だが、「小林上野守所持之大刀」として触れられている。このことは、2009年6月18日の「【室町】明徳の乱で使われた小林の太刀」でも書いた。
山名一族が足利義満に叛いた明徳の乱(1391年)で、小林上野介(守)義繁は、周防国守護の大内義弘と一騎打ちの末、討ち取られてしまう。その勇猛ぶりは「鬼ここめ」と畏怖されていたことが、乱を題材にした軍記物語「明徳記」に書かれている。バケモノのような強さだった、ということだ。(記事表示)
「明徳記」(岩波文庫版)は、次のように表現している。
「西国に名を得たる大内勢と、中国にては勇士のきこえある山名方の鬼こゝめなれば、互いに勇み進みて、ただ死を限りに戦う者はあれども、命を惜しみて一足も退く者はなかりけり」
岩波文庫の明徳記は、陽明文庫蔵本が底本。この部分を、宮内庁書陵部本で見てみると、次のようになっている。
「西国一の勇士と名を得たる大内勢と、山名一家のその中に、鬼こゝめと怖れられし上総介と小林なれば…」と具体的に、山名高義と小林義繁を「鬼こゝめ」と言っている。
「鬼こゝめ」(鬼ここめ)の「ここめ」について、広辞苑は「化け物、妖怪」のことだとしている。つまり、「鬼」も「ここめ」も、人力を超えた非常に勇猛な者のたとえとして使われている。
鎌倉時代の説話集「古今著聞集」にも、「鬼ここめ」という言葉が出てくるので紹介しよう。
巻第十六「興言利口」の「兵庫頭仲正秘蔵の美女沙金をめぐる争ひに、佐実髻を切らるる事」の中に登場。
「鬼ここめをも物ならず思へる武士は、おそろしきものぞ」という記述だ。鬼や魔物を何とも思わない武士の勇気を、畏怖を込めて語った場面だ。
ちなみに、ここで登場する武士は、タイトルに見える兵庫頭・仲正を指す。摂津源氏の源仲政のことで、仲政の子は以仁王とともに平氏打倒の兵を挙げた源三位頼政である。
明徳の乱では、鬼ここめと恐れられた小林義繁と山名高義は、主力の山名氏清らの軍の到着を待たずに、緒戦の二条大宮の戦いで討たれてしまう。
有名な両武将を討ち取った幕府軍の意気は上がり、山名軍は全軍の連携が取れないまま、逐次、各軍が戦場に投入され、各個に撃破されて、1日で乱は終わる。
ある意味、「鬼ここめ」と呼んで山名方武将の勇猛さを称揚することは、それを上回って勝利する幕府軍の強さ、正当性を際立たせることを狙ったものだったのかもしれない。
上野と武蔵の境を流れる神流川の北岸、上野国緑野郡に小林党の名字の地・小林(現在の群馬県藤岡市小林)がある。山名家の武将として「太平記」に登場する小林民部丞ら小林一族はこの地の出身だった。この地に残った一族も、同族である高山氏らとともに南北朝から戦国にかけての関東の争乱に名をとどめている。両者の関係を推測すると、名字の地に残った一族がいわゆる本流で、“西遷”したのは庶流だったと考えられる。(記事表示)
今回の推測の参考としたのは、上野の守護大名上杉氏と中小の国人層との関係である。
上野は武蔵の国と同様に、中小国人層が緩やかに結びついた「一揆」の力が強かった。上杉氏が守護領国体制を強化していく過程で、守護による国人層の組織化が進む。
こうしたなか、一族の中で守護の被官となるものが出てくる。
峰岸純夫氏の「上州一揆と上杉氏守護領国体制」(「中世の東国 地域と権力」東京大学出版会)では、結城合戦(1440年)の時の「上杉清方着到首注文」などにより、上州一揆や守護被官の構成を検討している。
上州一揆構成員であるが、同族が守護被官になっている者の中には、高山氏も入っている。また、一揆側には、高山氏の同族である小林氏の名前も見える。
同族関係をクローズアップして、守護被官と一揆側の参加者の比較をすると、一揆側に参加する者の名前が多く、被官は一人のケースがほとんどだ。
このことは「一揆側は一族体制での参加であるのに対して、守護被官は個人参加である、。一揆側に惣領や及び、庶子の主要部分があり、庶子の一部が被官となったと考えるのが妥当であろう」と結論づけている。
されにこの背景には、「国人領主は分限(所領)の狭小さの故に、常にはみ出さざるを得ない庶子を持ち、それが守護上杉氏の官僚体制の整備、直属軍事力の造成と対応していた」と見ておられる。
「太平記」に登場する山名家の武将には、小林氏ばかりでなく、高山氏も名前も見られ、両氏は山名家の領国の守護代にも登用されている。峰岸氏が論証された時代からは遡るが、小林にしても、高山にしても、西国に行った者たちは、「はみ出さざるを得ない庶子」だったと考えても不自然ではない。
それはまた、明徳の乱以後、小林氏は山名家中で急速に勢力を失ったことも、一族を挙げて山名氏に従ったのではないことを証明しているかもしれない。先祖伝来の地を離れて、風雲に乗らんとしたのは、やはり、「はみ出さざるを得ない者たち」だったのだろう。
明徳の乱(1391年)の緒戦で討ち死にしてしまう小林上野介(上野守)は、幕府軍が陣取る内野に攻め込む前に、桂川で味方であるはずの丹波勢と戦っている。明徳の乱で起きる数多くの誤算の中で、最たるものだったと思う。「明徳記」でも触れられていないので推測となるが、上野介は丹波勢を吸収して決戦場に向かうはずだったのではないか。だが、実際に目に飛び込んできたのは、幕府の陣営に投降する久下、中沢の軍勢の姿だった。この時点で、上野介には勝機が見出せなくなったに違いない。(記事表示)
大内義弘の陣に、山名高義とともに「今日の軍の先がけにて、討死する」と宣言して攻め入った。文字通り死中に活を求めるしかなかったのだ。
上野介は、山名氏清が本陣を構えた八幡(石清水八幡)にいたが、本隊と別れ、西国勢を率いる山名満幸が陣取る峰の堂に向かっている。
ところが、峯の堂の西国勢は進軍を始めており、上野介が上梅津の瀬に来たときには、桂川を渡河し、京に入る久下、中沢の三十騎を発見。不審な動きを見せたため、多数で取り囲んで問いただしたところ、中沢、久下の二騎は返事をせずに逃走。他の者は逃げ切れず、すべて討ち取った。
そもそも、上野介はなぜ、峯の堂に向かったのか。説明はない。
氏清は丹波、和泉、山城の守護である。丹波は、父の時氏から受け継いだ山名一族の世襲所領に近い分国である。和泉は、紀伊で起きた南朝軍の反攻を鎮圧するために氏清個人に任された分国という位置づけができる。山城も氏清個人に一時的に預けられたものだ。
明徳の乱では、丹後を本国とする満幸が自分の分国の丹後・出雲に加え、氏清の分国・丹波の軍勢を合わせて「西国勢」として率いたようだ。
こうした客観情勢を考えると、満幸の統率力を危惧した氏清が、上野介に命じて、丹波勢の掌握を図った蓋然性は高い。
実際に、丹波守護代は時氏の守護時代から、小林一族の者が務めていたことが記録に残されている。小林左京亮、小林民部丞、小林左近将監の名が残っている。
小林氏は、山名氏の苗字の地・上野国の山名郷に近い、緑野郡小林から出て、山名氏に随身して西遷、南北朝時代、各所で山名家の重臣として活躍。「太平記」にも随所に登場する。
別働隊として、丹波勢を掌握させるには最適の人選といえる。
また、「明徳記」では八幡の陣中で、上野介が氏清に対して、挙兵の無謀さを諌めるシーンが出てくる。やや芝居がかった場面ではあるが、事実だと仮定すると、戦略なき挙兵を腹に据えかねて、憤りをぶつけたのかもしれない。
戦術的には、丹波勢の直率による戦力増強に賭けたが、丹波の有力な武士である久下・中沢の投降を目の当たりにして、その期待も潰えた。
「今日の軍の先がけにて、討死する」。掛け値なしの言葉だった。
明徳の乱(1391年)は、山名陸奥前司氏清が修理大夫義理の軍勢を合わせて南から京を狙う一方、播磨守満幸は西から攻め入り、旧平安京の大内裏跡に広がる内野で、足利義満の幕府軍と雌雄を決するという軍略を描いていた。今回は、戦端が開かれるまでの山名軍の動きに焦点を合わせてみる。(記事表示)
乱直前、山名一族が守護を務めていた国を列挙する。
氏清が丹波、和泉、山城、満幸が出雲、丹後、義理が紀伊、美作、氏家が因幡――という具合に、乱に加担する者で計8か国を領していた。
山名方の挙兵が避けられないものとなってきた様子を、「明徳記」はこう記している。
氏清が兄の義理を説き伏せ、一族の参加が決まると、12月23日には、山名中務大輔氏家が白昼、京を出奔して、八幡(石清水八幡)に入った。これが知れ渡ると、京中の人たちが家財道具を運び出す避難騒ぎが起きている。
大乱になることは、だれもが容易に想像できた。
次いで丹後から満幸が数千の軍兵を率いて丹波にのぼってきた。和泉の氏清は「雲霞の勢」を集めて、八幡に陣を布く。義理は、紀伊、美作の兵を合わせて、天王寺に集結し京で戦端が開かれたら、渡辺を越えて摂津から山崎を通って攻め込むことになっていた。
こうした不穏な情勢は各地の武家より、幕府に届けられている。
丹後からは結城十郎満藤が12月19日に、早馬で、満幸が丹後国内の寺社本所領の幕府方の代官を追い出し、17日には丹後やその他の国の兵が集まり、合戦の用意を進めている、と報告を上げた。
河内の守護代遊佐河内守国長は、隣国の和泉の様子が注進している。「氏清が戦の用意を進めており、近日中に出陣する様子である。河内国を通る場合は、合戦して進軍を阻む」と伝えている。
24日には、義満が義理にあてて書を送って問いただしているが、義理は「氏清・満幸等が近日の振る舞い、是非なき次第にて候」と答え、事ここに至っては、もはや致し方ないとの考えを述べている。
氏家も京からの出奔に際し、「この上は力なし」と言い残している。因幡国の守護代入沢河内守行氏がすでに前日、行動を起こしていることから、傘下の武将に背中を押されたような形での挙兵だったようだ。
いよいよ戦機が熟してきた。
明徳2年(1391年)、守護大名の抑圧を図る足利義満の“挑発”に乗せられた山名一族が挙兵し、南と西から京に兵を進める。明徳の乱である。山名家の重臣だった小林上野守義繁は緒戦で討ち死に。勇猛をもって鳴る山名勢がいかにして、わずか1日で敗れ去るにいたったか――。軍記物語「明徳記」の記述に見る。(記事表示)
山名方の総大将は、山名陸奥前司氏清だが、挙兵に最も積極的だったのは、氏清の甥で婿の山名播磨守満幸である。これに、兄の修理大夫義理、中務大輔氏家、弟の上総介高義ら一族が加わる。
計画では、氏清は和泉から、京の南の八幡(石清水八幡)に軍を集め、義理が率いる紀伊国勢と合流。ともに北上して京に入り、大宮方面を目指す手はずになっていた。
丹後や出雲など西国勢は、満幸が率いて京都の西方に位置する峯の堂に陣を敷いた後、山を下り、西から、京の中心部の内野を目指し、氏清・義理の軍と合流し、幕府方と勝敗を決するという戦略だったようだ。
ほかに、小林上野守(上野介)義繁と氏清の弟・山名上総介高義の軍七百騎と、大葦次郎佐衛門尉宗信と土屋党の五百騎、氏家と入沢河内守の因幡勢五百騎が別働隊として動いていた。
小林・上総介軍は丹波口から、氏家勢は淀を出て、鳥羽の秋の山、河原から二条大路を北上して大宮内野に攻め込むはずだった。
一方、大葦・土屋党は、上梅津で桂川を渡河、仁和寺付近を通って内野の北側、幕府軍の背後に出ることになっていた。
明徳の乱(1391年)で討ち死にした小林上野守(介)の太刀に関する記述が、奈良興福寺の大乗院門跡・尋尊が書いた日記「大乗院寺社雑事記」に遺されている。乱から約100年後の記事だが、当時の人々の記憶に残る程度の武将だったことがうかがえる。(記事表示)
小林上野守(介)は、足利義満に対して挙兵した主君・山名氏清を諫め、戦闘では大内義弘と一騎打ちになり、討ち取られている。
「大乗院寺社雑事記」の記事は、延徳4年(1492年)正月28日の条に出ている。
一祐松瓶子等持参了、春円大進上用小林上野守所持之大刀、明日可京云々、入見算、其興在之、
死後100年経っても、小林上野守(介)の太刀として話題にされていた証であろう。
村田勇司氏が論文「能『小林』の周辺」(「学芸国語国文学」25、平成5年)で指摘されているもので、この太刀が小林の太刀であるかの真偽はさておいても、日記を書いた尋尊、この条に登場する春円には、小林という武将について知識があったと言っていいかもしれない。
乱の後、比較的早い時期に成立したとみられる軍記物語「明徳記」や、乱を題材にした能「小林」に描かれ、理想的な武将としてイメージが広まっていたことがその背景にはあるようだ。
村田氏の論考では、さらに、「明徳記」や「小林」による文学上の影響だけでなく、実際に小林の遺品や伝承を伝える役割を果たした人たちがいたのではないか、と推察が及んでいる。
この論文には触れられていないが、小林を討ち取った側である大内義弘の長刀(なぎなた)が大内家に伝えられていたらしい。大内、尼子、毛利氏らが主人公となる中国地方の戦国時代を描いた軍記物語である「陰徳記」(巻七「大内先祖ノ事」)に見える記事である。
小林上野守(介)が持っていた太刀だけでなく、小林上野守(介)を討ち取った長刀までもが後代に伝えられたことの意味を、あらためて考える必要があるかもしれない。
中世における最大のアイヌ民族の蜂起と言われる「コシャマインの戦い」は1456年(康正2年)、応仁の乱(1467年)の10年前に、北海道南部で起きた。函館に近い「志濃里(しのり)」の鍛冶職人がアイヌの若者を刺殺したことをきっかけに、道南部のアイヌ民族が一斉に蜂起した。最初の攻撃目標となった「志濃里」を治めていたのは上野国出身の小林氏。上野国緑野郡の小林氏の一族だった可能性もある。(記事表示)
1456年夏、志濃里(現・函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人の鍛冶職人が、出来上がったマキリ(小刀)の良し悪しや値段を巡って、客のアイヌ民族の青年と争いになり、マキリで青年を刺し殺してしまう。
松前藩の史書「新羅之記録」には、こう記録されている。
これに依りて、夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より大永五年春にいたるまで、東西数十日程に住する所の村々里々を破り、者某(シャモ)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起こるなり
1525年(大永5年)まで、争乱は間断的に70年間も繰り広げられたという。中でも最大は、東部アイヌ民族の首長コシャマインに率いられたアイヌ軍が、志濃里館(しのりだて)をはじめとして、和人が立てこもる砦ともいえる「館」を次々に攻め落とした1457年(長禄元年)に起きた戦いだった。
志濃里館の館主は小林良景(よしかげ)で、1457年5月14日、アイヌ軍に大軍に攻められ、戦死している。コシャマインの軍により、陥落した和人の館は、志濃里、箱館、中野、脇本、穏内、大館、禰保田、原口、比石。残ったのは、わずかに茂別、花沢の2館だった。
「アイヌ民族の歴史」(榎森進著、草風館)によると、志濃里館主の小林氏について、「上野国の御家人であった小林氏から分かれて北条氏の被官として津軽方面に来住した小林氏の末裔である」と紹介。入間田宣夫氏の見解を引用するなどして、当時の奥羽地方と蝦夷間の人間の動向や交流、交易関係を描き出している。
山名氏清ら山名一族が足利義満に背いた「明徳の乱」(1391年)で、周防国守護大名の大内義弘と一騎打ちの末、討ち取られた小林上野介(上野守)にちなむ長刀(なぎなた)が大内家に残されていた。中国地方の戦国時代を描いた戦記物語「陰徳記」に書かれている。(記事表示)
「陰徳記」巻第七「大内先祖ノ事」の一節に、大内義弘の戦功として、小林上野介義繁を討ったことを紹介した上で、「小林長刀が大内家にある」としている。
この時の戦闘場面は、乱の直後に書かれた軍記物語「明徳記」に詳述されている。
大将の義弘以下、大内軍の五百騎が下馬して山名軍の突撃を待ち構える中、小林が率いる山名軍騎兵は射たてられて、刀剣による下馬戦闘を強いられてしまう。
一騎打ちの場面では、小林が「鍔本(つばもと)まで血に染めたる太刀」で大内に打ちかかれば、大内は「長刀を茎(くき)短かに取り直して」迎え撃ったとされる。最後は、内甲(うちかぶと)と足を切られて小林は命を落としている。
陰徳記に見られる「小林長刀」は、大内義弘が明徳の乱で小林義繁を討ち取った際に手にしていた長刀だったのだろう。
小林上野介は、精強な山名軍の中でも名の知られた勇将だったらしく、明徳記の中では「中国にては勇士の聞こえある『鬼ここめ』」と呼ばれている。
緒戦で山名方の猛攻をしのぎ、大将の義弘自らが敵の勇士を一騎打ちで仕留めたことは、比較的戦意の乏しかった幕府軍の中で際立った活躍だったとされる。
実際に、この戦闘後、大内義弘は小林義繁に腕を2か所切られた姿のままで足利義満の本陣に出向き、居並ぶ諸将の前で自らの奮戦ぶりを誇り、援軍を要請。
ただし、度が過ぎたようで、「自分が討ち死にしてしまったら大変なことになる。義弘ほどの勇士はいないであろうから」と言い放ち、諸将の反感を買ってしまう。大内義弘自身が後に反乱を起こし、誅せられることになる「応永の乱」(1399年)の伏線にもなるような一場面である。
少々、話が逸れたが、大内義弘にとって明徳の乱での活躍は、軍の統率者としても、また、一人の武将としても面目躍如の働きになった。そうした武勲のシンボルとして、「小林長刀」が大内家に伝えられたとの推測ができる。
大内家は戦国時代に入ると、重臣陶隆房の下克上により衰退し、やがて滅亡する。「小林長刀」も歴史の舞台に姿を表すことはなかった。
明徳の乱を描いた文学に、軍記物語の「明徳記」と、古作の能「小林」(謡曲)がある。そこでは、乱の大将である山名氏清に仕える山名家の重臣で、大義名分のない反乱を諫め、潔く討ち死にする小林上野守(上野介)が、理想的な古武士の姿として描かれている。だが、能「小林」や明徳記の世界を史実と比べてみると、矛盾を感じざるを得ない点もある。(記事表示)
そもそも山名家は、幕府に従順でないところに、その特長がある。11か国の領有も、幕府から与えられたものではなく、自らの力で切り取ったものだ。幕府に対しては、力による駆け引きで対等に渡り合ってきた家柄である。
小林一族にしても、山名時氏のころ以来、山名家の執事として先頭に立って幕府への反抗を指揮してきた。それが一転、明徳の乱では、君臣の順逆を持ち出し、主君を諫止する姿は不自然である。
山陰での自立時代とは代替わりしていることを考慮しても、それほど観念論的になりえるだろうか。ずいぶん前に下賜されていた南朝方の旗を持ち出して立てようとした氏清の方がわかりやすい。
明徳記とそれを題材にしてつくらた能「小林」に登場する小林上野守の行動は、幕府側に都合よく脚色されたという推測も成り立つだろう。
では、氏清に対する諫止はなかったのだろうか。仮にあったとすれば、山名家の分裂を諫めたのではないか、と想像される。山名家の惣領は、師義‐時義‐時煕と伝えられていくうちに乱れ、そこを義満に利用され、今回の乱につながっていく。
氏清は、もともと義満と結び、惣領を“横領”した側である。だが、それからまだ日が浅くて惣領権が確立できていない状態で挙兵を余儀なくされている。それが無謀であり、心ある臣下であれば、主君に意見しなければいけない場面だ。
実際に戦闘が始まると、丹波から動員された久下、中沢といった国侍らは、戦いもせずにいち早く幕府軍に投降。時氏時代に関東からつき従ってきた小林、土屋らは奮戦の末に壊滅している。土屋党にいたっては一時に53人が討ち死にしている。
「大義名分のない戦とわかっていながら、主君に殉じ、死に急いだ」と文学的修辞により美化されているが、ここにも体制側の作為が嗅ぎ取れる。
実際、明徳の乱以後、小林や土屋の一族は山名家の表舞台から姿を消しているので、大打撃を蒙ったことは事実と見ていい。
南北朝のころより戦闘には滅法強い山名軍という評判に加え、両国から幕府軍に拮抗する軍勢を催して対陣したが、戦闘は1日であっけなく終わっている。
戦意の乏しい多くの兵の中にあって、譜代の家臣のみが孤軍奮闘して玉砕したといったところが実態ではなかったか。
惣領権が動揺している最中に、在地支配も中途半端なまま、最強山名軍団の幻想のもと挙兵してしまった、と推察することも可能だ。
山名軍団の虚名におびえた幕府方守護大名たちの和平論を一蹴した義満が、一番、冷徹に現状を分析したマキャベリストだったのだろう。
明徳2年(1391年)、山名前陸奥守氏清と山名播磨守満幸が足利義満に背いて兵を挙げた「明徳の乱」を題材にした能がある。「小林」という名の作品で、世阿弥の時代より以前につくられ、現存する数少ない「古作の能」として知られている。(記事表示)
あらすじは、明徳の乱後、山名氏清が陣を布いた京都の石清水八幡に氏清ゆかりの僧が参詣し、合戦の様子や氏清の評判を聞く。名分のない戦を起こした主君・氏清を諌めた小林上野守の亡霊がシテをつとめる「鬼能」(修羅能)である。
京都を戦場に戦われた内野の戦いで、小林上野守は五百余騎を率いたが、周防国守護大内義弘と組討になって最期は討ち取られている。
能の終曲では、小林の亡霊が、問われるままに内野での奮戦の様子を語る。最後は「さてこそ小林名将にて、多くの敵を内野の原にて、弓矢の名こそ揚げにけれ」という文句で閉じられる。
明徳の乱は、一族で全国の六分の一にあたる11か国の守護を務めたことから「六分一衆」とも称された山名氏の勢力を削ぐため、義満の挑発によって起こった。この乱により、義満の専制権力が確立されたことから、南北朝から室町時代に至る画期ともなる戦いだったと言える。
山名家の重臣、小林上野守の役割は、主君の無謀を諫めたが聞き入れられず、合戦では真っ先に討ち死にしようとする潔い古武士の姿で描かれている。「明徳記」でも、能「小林」でもほぼ同じだ。
秩序を何よりも重んずる権力側からみれば、反乱軍の一員ながら、結果的に秩序や体制の補強にもなる役回りである。悲劇のヒーロー的でもあり、反発なく人の心に受け入れられていく。
天野文雄氏の論考「古作の鬼能《小林》成立の背景――足利義満の明徳の乱処理策との関連をめぐって」(森話社刊「鬼と芸能」所収)では、明徳記と同様、能「小林」も義満側の意を体して書かれたと分析。
内容は、小林の名将ぶりの称賛だけにとどまらず、氏清ら一党に対する哀悼に満ちている、としている。その背景に、明徳の乱を契機に幕府権力を不動のものとした義満の余裕の表れがあるという。
能「小林」は、岩波文庫版「明徳記」(冨倉徳次郎校訂)の巻末に、彰考館蔵本からとった謡曲「小林」が載せられている。また、論考としては、村田勇司氏の「能『小林』の周辺」(「学芸国語国文学」二五)などがある。
【訂正】第一段落で山名氏清の官位を「陸奥守」としていたが、正しくは「前陸奥守」(修正済み)。明徳記では「陸奥前司」と書かれている。(2009.9.13)
関東管領を務めた上杉氏が、高山・小林一族の本拠地、上野国緑野郡の高山御厨(群馬県藤岡市)に平井城を築いたのは、永享10年(1438年)のことだとされる。鎌倉公方・足利持氏と対立した上杉憲実は、それまで居館があった鎌倉の山内館にいることができなくなり、守護国であった上野に退去した。高山御厨の地は、以後、関東の戦国騒乱の中心地となってしまう。(記事表示)
上杉氏は、足利尊氏の姻戚として勢力を伸ばし、関東管領として、伊豆・上野守護職を世襲。関東府において鎌倉公方を補佐する立場だったが、幕府からの独立傾向が強い鎌倉公方を牽制する役回りが強かった。
上杉憲実の上野退去は、こうした軋轢の中から起きた事件だった。これが「永享の乱」の発端である。
持氏は永享10年8月、武蔵国府に出陣する。平井城にこもる上杉憲実への武力行使に踏み切った。「藤岡市史」通史編によると、戦闘は、武蔵・上野国境を流れる神流川沿いの神田・本郷あたりの「藤岡河原」と呼ばれている地域および、平井城・金井城で展開されたようだ。
一方、京の室町幕府は、持氏の平井出兵を聞くと、関東にいる幕府の「扶持衆」をはじめ、駿河と信濃の守護らの軍勢を動員し、持氏の追討にかかってくる。
足利幕府の三代・義満の時代に、山名氏清が起こした明徳の乱(1391年)を題材にした「明徳記」には、小林上野守義繁と周防国守護・大内義弘が、馬を下りて一騎討ちを演じる様子が詳細に描かれている。近藤好和氏は著書「騎兵と歩兵の中世史」の中で、それまでの騎兵主体の戦闘から、徒歩による戦闘へ、移り変わっていきつつあることを明らかにされた。(記事表示)
明徳記最初の戦闘場面で、大内義弘軍に山名高義・小林義繁軍が攻めかかるところだ。大内側は騎兵を下馬させ、楯を並べて、馬の足を払い、落馬したところを討ち取る「打物(うちもの)=刀剣=」主体の戦闘態勢をとった。
山名・小林側は騎兵で突貫したものの打ち破れず、馬から下りて「打物」を使って、切り込んでいる。
太刀の小林義繁と長刀の大内義弘との「打物」による一騎討ちは、最後は小林義繁が討ち取られて終わる。
大内も小林も、ともに馬上から刀剣で戦う「打物騎兵」だったが、大内は戦闘に入る前に「下馬打物」となり、小林も「下馬打物」に引き込まれている。近藤氏の分析では、「打物騎兵」の「下馬打物」が、時代の特徴であるという。すなわち、「馬上打物」から「下馬打物」への移行である。
同氏の指摘からの引用を続ける――。軍記物語の中の戦闘を見ると、「平家物語」で「馬上打物」の増加が見られ、「太平記」で顕著になる、としている。
やや、脇道にそれるが、同書では、弓射騎兵の戦闘例として、「今昔物語集」に見える源充と平良文の騎射の一騎討ちも紹介している。源平争乱の治承・寿永期以前の戦闘考察の手がかりになる、という。
明徳の乱(1391年)に出陣したのは、「明徳記」では、小林上野守義繁とある。一方、「丹波史を探る」(細見末雄著、神戸新聞総合出版センター)によれば、小林重長であったり、小林修理亮であったりと、その表記が揺れている。以下、「丹波史を探る」を見てみる。(記事表示)
まず、重長として登場するのは、「荻野氏と荻野朝忠」の章(28ページ)。明徳の乱には、当時丹波守護であったとする山名氏清の守護代小林重長に従って、京都の桂川に臨んだ荻野美作守重定とその弟重国が「明徳記」に出てくる。この戦に重定兄弟は久下・長沢らとともに、桂川を渡り、幕府方へ寝返って細川頼之の陣に入ったため家は安泰であったことを紹介するもので、小林ら山名方の動向に主眼を置いた文章ではない。
次いで出てくるのは、「新屋荘の押領と久下氏の盛衰」の章(37ページ)。明徳の乱には、当時の丹波守護山名氏清の守護代小林修理亮に率いられて、丹波国人らとともに将軍の軍勢と桂川を挟んで対陣していたけれども、丹波軍は河を渡って、将軍方の細川頼之に寝返ったので、敗戦をまぬがれた、と紹介され、「荻野氏と荻野朝忠」の章とは違い、官職名で登場している。
「明徳記」では、官職名は「上野介」あるいは「上野守」(親王任国のため、正しくは上野介)で、名は「義繁」として登場する。山名氏清から見れば、先代の師義(兄)、先々代の時氏(父)時代の重臣で、丹波守護代を務めた重長(官職名は民部丞)をあてはめる根拠が、出典も出ていないので、いまひとつ明瞭ではない。
ただし、明徳の乱の武将を小林重長にする説は他にもある。「能『小林』の周辺」(村田勇司、学芸国語国文学25号、1993年3月、東京学芸大学国語国文学会)である。
太平記巻三十一では、いよいよ山名右衛門佐師義が父の時氏とともに足利義詮に謀反を起こし、京に攻め上がる。緒戦の神楽岡の戦いでは、小林右京亮が登場する。(記事表示)
和田・楠は敵の気を計って平野へ帯(おび)き出さんと、法勝(ほっしょう)寺の西門を打ち通って、二条川原にぞ磐へたりける。ここに案の如く佐々木山内判官、楠が勢に欺(あざむ)かれて、箙胡(えびら)を扣(たた)いて時の声を揚げ叫(わめ)いて、切ってぞ懸(か)かりける。楠が勢東西に開き合って散々に射る。射れども山内判官事(こと)ともせず、敵を三方に相受けて、暫(しばら)く支へて戦ったる。これを見て、小林右京亮(うきょうのすけ)、「手合わせの合戦して、かへって敵に気を付けじ」と、七百余騎を左右に分けて、横合いに攻め戦って、山内判官思ふ程戦って、後陳(ごじん)の荒手(あらて)に譲って、神楽岡に引き退く。(太平記巻三十一)
義詮方と山名方が対峙する中、山名方の誘引作戦によって先端が開かれた。はかばかしい戦果が得られないまま推移するかに見えたが、小林右京亮の側面攻撃により、戦局が動き始める。
小学館の日本古典文学全集の注釈では、「小林右京亮」について、「山名氏の有力被官。上野国緑野郡小林(群馬県藤岡市)出身の武士。永和本では小林民部大夫」と説明。
また、底本(水府明徳会彰孝館蔵天正本)と異同があるものとして、徴古館本を紹介。「佐々木は少しも疼まず、しころをかたふけ袖をかさして破入けるを見て、山名が執事小林右京亮、七百余騎にて横合にあふ、佐々木余りに到(いたく)懸(か)けられて不叶(かなはじ)とや思けん、神楽岡に引上る」としている。
太平記には、山名家臣として「小林」が、民部丞、左京亮、右京亮は複数回、登場。そのほか、応安4年に塩冶高貞との戦いで戦死した民部丞重長の長子重治、文和4年の神南山合戦の乱戦中に民部丞とともに「舎弟」としてのみ登場する者もいた。注釈にある永和本の民部大夫については今のところ、他では見られないものだ。